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日本の旅          愛媛・松山

大山祇神社
おおやまずみじんじゃ
愛媛県今治市大三島町宮浦3327
Tel 0897-82-0032


 大山祇神社は地神・海神兼備の大霊神として日本の国土全体を守護し給う神であるところから古代より日本総鎮守と尊称され続けています。伊予の国の一宮でもあります。
 朝廷を初め国民の崇敬は各時代を通して篤いものがあり源氏・北条氏・足利氏など歴代の武家の尊崇も集めました。地元の越智氏・河野氏・村上水軍にも崇敬され戦勝祈願や御礼などから多くの奉納品を所蔵しています。
 本殿には神宝の「鏡」と「矛」が秘蔵され、境内中央には乎千命(おちのみこと)が手植えしたと伝えられる樹齢2600年の神木である大楠が繁り、本殿や拝殿、神門などが今なお重厚な姿を見せています。
 祭神は日本建国の大神の大山積大神(和多志神)を祀っています。神武天皇の東征のみぎりに、祭神の末裔でもある乎千命(おちのみこと)が芸予諸島の要衝御島(この大三島)を神地と定め鎮祭したといわれています。
 この他にも伊豆国の三嶋大社から分霊を招いたとする説や朝鮮半島から渡来した神であるとする説、摂津国の三島江からこの地に移されたとする説などもあるようです。
社務所
 かなり古い時代から存在した神社であることは間違いなく、平安時代には朝廷から「日本総鎮守」の号を下賜されているのです。
北廻廊十七神社
 大山積大神は天照大神の兄神です。和多志大神(伊豫国風土記)とも呼ばれ山の神々の親神に当る山の支配者でした。天孫瓊々杵命(ににぎのみこと)の皇妃となられた木花開耶姫(吾田津姫)の父神にあたります。
大山祇神社手水舎
 瓊々杵命(ににぎのみこと)と木花開耶姫の間に生まれたのが彦火火出見命(ひほほでみのみこと)です。兄(海幸彦)の釣り針を探しに海宮(龍宮)に行った山幸彦なのです。
大山祇神社祓殿
 そこで海神のむすめ豊玉姫命と深い契りを結びました。身重の豊玉姫命は「天孫の御子を海原の龍宮で生むことは出来ない」と鵜戸の地に出て霊窟に急いで産殿を造り屋根の鵜の羽の茅も葺き合わぬうちに御子を生んだのでした。
大山祇神社神門
 そのため「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」とつけたそうです。今日では通称「ウガヤフキアエズノミコト」(鵜葦草葦不合命)といわれています。
大山祇神社神門
 鵜葦草葦不合命と玉依姫の間に生まれたのが、神武天皇になるのです。つまり、木花之開耶姫は、神武天皇の祖々母にあたるわけです。
大山祇神社拝殿
 大山祇神社の祭主であった大祝安用の娘に鶴姫がいました。「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」と呼ばれています。
大山祇神社拝殿
 室町時代に末期、周防の大内氏の軍勢から大三島を守る戦で18才の生涯を閉じたといわれています。
大山祇神社拝殿
 大山祇神社宝物館には鶴姫が着用した紺絲裾素懸威胴丸が奉納されています。我が国唯一の女性用鎧だそうです。
大山祇神社南門
 この宝物館には、日本に現存する刀剣・甲冑の約8割があり、ほとんどが国宝・重要文化財に指定されているという驚くべきところなのです。日本最古の大鎧や源頼朝・義経の奉納品、弁慶の長刀などもあります。
大山祇神社拝殿
 国宝の「禽獣葡萄鏡」は斉明天皇の奉納と伝えられている中国鏡です。667年の朝鮮半島の白村江の戦いで日本軍と中国の唐軍が激突した歴史を物語るものです。
大山祇神社拝殿
 元寇の際、河野通有の率いる三島水軍が大活躍したそうです。それを物語る元寇軍の兵士の兜と胡弓などもあります。
大山祇神社拝殿
 大山祇神社は 中世は四社詣、五社詣の中心となっていたそうです。平安時代にはすでに市が立ち、それは現在まで続いています。
八重垣神社
 分社は、全国に1万社以上あるそうです。延喜式名神大社に列せられ、伊予国一の宮でした。明治以降は国幣大社に列せられ四国で唯一の大社として尊崇されています。
大山祇神社酒殿
 御桟敷殿(おさじきでん)です。この建物は旧暦の5月5日の御田植祭と旧暦の9月9日の抜穂祭の時にお神輿の渡御を申し上げ神田斎場祭を奉仕する御殿です。これらの日には無形文化財の一人相撲が奉納されるそうです。
大山祇神社御桟敷殿

大山神社楠木群
  大山祇神社のクスノキ郡は、日本最古の原始林社叢のクスノキ郡として、昭和26年(1951)に国の天然記念物に指定されました。指定樹38本の他大小約200本の楠木が群生しています。

雨乞の楠
 天然記念物の能因法師雨乞の楠です。日本最古のクスノキで樹齢は3000年といわれています。900年前の後冷泉天皇の時に伊予の国守藤原範国(のりくに)は能因法師を祈雨の使者として参拝させたそうです。
 「天の川 苗代水にせきくだせ
  天降ります 神ならば神」
と詠み幣帛に書き付けて祈願したところ、伊予の国中にに三日三晩雨が降ったと金葉和歌集に記されています。

乎知命御手植の楠
 境内中央には乎千命(おちのみこと)御手植の大クスノキがあります。根周20m、高さ15.6m、樹齢約2600年といわれています。
 御島(大三島)に祖神である大山積大神を祀った乎千命が植えたとされています。古来より御神木として崇められています。

河野通有兜掛の楠
 弘安4年(1281)、蒙古襲来の際、河野通有が参拝祈願して出陣したそうです。その出陣の時にかぶとを掛けたクスノキです。三島水軍を率いて筑前に向かい勝利を得たそうです。

伊藤博文記念楠樹
 わが国の初代首相の伊藤博文は明治42年!1909)3月22日この大山祇神社へ参拝しました。社号標の揮毫と楠樹の記念植樹をされたそうです。

宝篋印塔
 重要文化財に指定されている鎌倉時代の宝篋印塔です。時宗の開祖一遍上人は河野通広の子です。松山宝厳寺で生れ、三島水軍河野通信の孫にあたります。一遍上人絵伝によると大三島宮の参拝の折奉納したものだそうです。



大山祇神社宝物館
おおやまずみじんじゃほうもつかん
 大山祇神社の宝物館は紫陽殿、大三島海事博物館(葉山丸記念館)、国宝館の3館あります。数々の武将たちが戦勝祈願と戦勝のお礼に奉納した甲冑や刀剣類などが有り、その数は数万点に及びます。
 紫陽殿、国宝館には鎧、兜、刀剣類などが展示され国宝8点、国重要文化財469点、県重要文化財14点と、日本現存の刀剣・甲冑の約8割がここに集結しているのです。
 大三島海事博物館(葉山丸記念館)です。昭和天皇の海洋生物研究のための御採取船「葉山丸」を永久保存するために建設され昭和43年(1968)に開館しています。



大三島美術館
おおみしまびじゅつかん
愛媛県今治市大三島町宮浦9099
Tel 0897-82-1234


 大山祇神社の向かいに建つ大三島町立大三島美術館は現代日本画を中心に約1000点の作品を収蔵しています。現代日本画の動きを学び、楽しめる美術館です。
 館内の壁面はすべて和紙張りで、展示作品の日本画との調和を図っています。前田青邨、鏑木清方など日本画の巨匠の作品など700点以上の所蔵作品があるそうです。
「日本画家と共に歩み、共に成長する」をテーマに集めた作品は、中島千波など昭和15年(1940)以降に生まれた画家のものが主なものになっています。



表忠碑
 乃木将軍が心中を3字にたくして創造した書だそうです。大山祇神社の横、大三島町立大三島美術館の向かい側に建っています。
 「表に忠の志を石の硬い心を以て家の定とする」


 今治市の今治桟橋や大崎上島の木江へ行く快速フェリー・大三島ブルーラインの発着港です。
大三島ブルーライン
 安芸の宮島のように水に浮ぶ華麗な社殿を連想させる港です。



今治城
いまばりじょう
愛媛県今治市通町3ー1ー4
Tel 0898-31-9233


 今治城は慶長7年(1602)藤堂高虎によって築城開始され、慶長9年(1604)に完成しました。高虎は近江膳所城の縄張や伏見城の修築におわれ、今治城の縄張は渡辺勘兵衛を普請奉行として行ったといわれています。
 高虎は浅井長政、羽紫秀長、秀長の嗣子秀俊に仕えました。その後高野山で出家しました。秀吉に拾われて伊予宇和郡7万石を与えられました。
 関ヶ原の合戦で福島正則と徳川の先陣として活躍し、伊予の半国20万3千石の大名として国府城に入城しました。発展性に乏しい山城の国府城を捨て、軍事的に重要で、海陸の交通に便利な、越智平野中央の今張に城を築いたのです。そして今治と改名しました。
  慶長13年(1608)高虎は伊賀一国と伊勢8郡の20万石の大名になり、今治は飛地として2万石を領しました。慶長15年(1610)丹波亀山城に城を築くため今治城の天守閣を解体して移築したのです。
 ですから今治に天守閣があったのは、わずか4年だけで以後築かれる事もありませんでした。
 今治2万石には城代として藤堂高吉が27年間治めましたが、寛永12年(1635)、家康の甥の松平定房が3万石で入城し、松平家の居城として明治まで続きました。
 吹揚城とも呼ばれた今治城は城をめぐる堀に直接海水を引き入れるといった、珍しい素朴な実践型の造りです。
 中津城、高松城と並び日本3大水城に数えられています。5層6階の天守閣は歴史資料館になっています。
 現在の今治城天守閣は、昭和55年(1980)、今治市制施行60周年記念事業として鉄筋コンクリートで再建されたものです。同年に武具櫓、昭和60年(1985)に御金櫓を、そして平成2年(1990)には山里櫓を再建しています。



吹揚神社
ふきあげじんじゃ
愛媛県今治市通町3ー1ー4



 吹揚神社は比較的新しい神社です。祭神は天照大神、八幡大神、事代主神、厳島大神、藤堂高虎、松平定房です。
 明治5年(1872)、今治市内に建てられていた神明宮、蔵敷八幡宮、巌島神社、夷宮の4宮を旧今治城内に合祀し、吹揚神社を造営し遷座しました。
 郷社になったあと明治15年(1882)に縣社に昇格しました。昭和33年(1958)、戦災から復興させましたが、昭和55年(1980)に放火により焼失しました。昭和58年(1983)に再建して今の社殿になっています。



今治市河野美術館
いまばりしこうのびじゅつかん
愛媛県今治市旭町1ー4ー8
Tel 0898-23-3810


 今治市河野美術館は今治市初の名誉市民である河野信一氏が寄贈した貴重な美術工芸品を公開するために昭和43年(1968)に開館しました。
 収蔵品は平安時代から現代に至るまでの書画、仏像、著名人の原稿など1万2千点を収蔵しています。狩野永徳、探幽の屏風や額面、土佐派の屏風も見られます。
 金葉和歌集、古今和歌集などの古写本、正岡子規の写生図、喜多川歌麿の版画などが並びます。
 館蔵品全てを常設展示しているわけではなく館蔵品の中からテーマを決め、展示しています。昭和63年(1988)に改装し、現代美術品も併せて展示しています。



泰山寺
たいさんじ
愛媛県今治市小泉1ー9ー18
Tel 0898-22-5959


 泰山寺は真言宗醍醐派の寺院で金輪山勅王院(ちょくおういん)と号します。本尊は地蔵菩薩です。四国八十八箇所霊場の第56番札所になっています。
 弘法大師が弘仁6年(815)、梅雨期にここを訪れた時、蒼社川が氾濫していました。地元農民を率いて堤防を築造し「土砂加持」の秘法で川を鎮めたところ、延命地蔵菩薩が出現したそうです。
 そこで大師は地蔵菩薩像を刻んで、堂宇を建て本尊として安置したということです。泰山寺の名は延命地蔵経中の「女人泰産」からとったものといわれています。



乗禅寺
じょうぜんじ
愛媛県今治市延喜甲600
Tel 0898-22-4671


 普門山乗禅寺は真言宗豊山派のお寺です。通称、えんぎ観音といわれています。
 はじめ定善坊という小さなお堂だけでしたが、醍醐天皇の病気平癒の祈祷を行なって、延喜年間(901-923)に寺格となったそうです。
 低い土塀に囲まれた区画に石塔が11基あります。乗禅寺石塔群といわれ、これらすべて国の重要文化財に指定されています。
 これらの石塔は鎌倉時代中期から南北朝時代に造られたもので迫力があります。もとは付近に別々に立っていましたが一堂に集められたそうです。



野間神社
のまじんじゃ
愛媛県今治市神宮甲699


 続日本紀にも載っている古社です。社伝によれば、大宝元年(701)に社殿が造営され、天平神護2年(766)には従五位下を授けられているそうです。
 承和4年(837)には大山祇神社とともに南海道で初めての名神を預かり、延喜式では名神大社に列しました。
 中世には河野氏をはじめとする武将の尊崇が厚く、江戸時代には松山藩の雨乞いの祈願所とされたそうです。
 ここには国の重要文化財の野間神社石造宝篋印塔があります。元亨2年(1322)に造られた高さ2.8mの宝篋印塔です。願主が「紀有遠(きのありとお)有春(ありはる))」と刻まれています。鎌倉期ならではの重厚な安定感があります。



ふるさと美術古墳館
ふるさとびじゅつこふんかん
愛媛県今治市朝倉下甲898


 緑のふるさと公園内に郷土の遺跡、遺物の保存と研究を目的に、平成2年(1990)に開館しました。1階の考古室では、村内の遺跡と古墳から出土した銅鏡、銅剣、木簡、土器など約200点をジャンルごとに展示しています。
 映像システムを駆使して地形模型、古墳模型、竪穴住居の模型などを設置しています。2階の新館美術室では書や絵画、彫塑、写真作品などが観賞できます。
 本道寺は奈良時代初期に建設された寺院だったそうです。東西100m、南北150mの寺域に七堂伽藍を有する大寺であったと推察されます。この礎石が平成2年(1990)、整備中のこの場所で発掘されたそうです。



道後温泉本館
どうごおんせんほんかん
愛媛県松山市道後湯之町5ー6
Tel 089-921-5141


 道後温泉は、日本書紀にも登場する3000年の歴史がある日本最古の温泉です。足を傷めた一羽の白鷺(しらさぎ)が岩間から湧き出る湯で傷を癒したという名湯には、多くの偉人、文人墨客が来湯しています。
 明治27年(1894)に建築された道後温泉本館は木造三層楼の建物です。平成6年(1994)に、近代和風建築としてのすばらしさと保存状態のよさから、国の重要文化財に指定されました。
 夏目漱石の小説「坊っちゃん」の中に登場してくる住田の温泉とは、この本館のことなのです。 道後温泉本館は、約20ヵ月の工期と13万5千円という当時では破格の予算で建造されたそうです。
 出雲の国から伊予の国への途中、大国主命は急病に苦しむ少彦名命を手のひらに載せて温泉に浸し温めたそうです。するとたちまち元気を取り戻し、喜んだ少彦名命は石の上で踊りだしたそうです。その石が「玉の石」といわれています。
玉の石
 又新殿(ゆうしんでん)は日本唯一の皇族専用の浴室です。道後温泉本館の東側にあります。この湯殿は明治32年(1899)に完成しました。
又新殿
 外観は桃代間時代の建造物を真似た破風造りで、室内は金泥絵巻に囲まれています。昭和天皇は昭和25年(1950)に来浴されたそうです。入浴は出来ませんが、中を見ることはできます。
又新殿



宝厳寺
ほうごんじ
愛媛県松山市道後湯月町5


 豊国山遍照院宝厳寺は時宗の寺院で、時宗開祖一遍上人の生誕地です。承久の乱で陸奥に流された河野通信の孫として生まれ全国各地で衆生済度の旅を続け、遊行上人と崇められました。
 寺伝では飛鳥時代の665年、河野守興が誓願院として創建しました。開創当時は松ヶ枝町一帯に12の支院があったそうです。
 平安時代中期 天台宗寺院となりましたが、正応5年(1292) 再興され、時宗に改宗したそうです。建武元年(1334)、 得能通綱が一遍上人御誕生旧跡碑を松ヶ枝町の入り口に建立したそうです。
 室町時代に造られた木造一遍上人立像は国の重要文化財に指定されています。山門から境内にかけての参道両側は歓楽街で、夏目漱石が「坊っちゃん」の中で「山門のなかに遊郭があるなんて前代未聞」と書いています。
 境内には、斎藤茂吉の句碑や、子規が詠んだ「色街や 十歩はなれて 秋の風」の碑などが立っています。



道後公園(湯築城跡)
どうごこうえん(ゆづきじょうあと)
愛媛県松山市道後公園
Tel 089-941-1480 湯築城資料館


 道後公園は、明治以来の長い歴史を有する県立都市公園です。桜の名所として有名で、松山地方気象台では、道後公園の桜を標本木に指定し、桜前線の目安としています。また、ここは中世の時代に伊予(愛媛県)の守護であった河野氏が本拠地としていた湯築城跡でもあります。
 14世紀前半、河野氏によって、東に追手門、周りに二重の堀をめぐらせた平山城「湯築城」が築城されました。天正9年(1581)以後、四国を狙う土佐の長宗我部元親が伊予に侵入し、城主であった河野通直は応戦しました。
 天正13年(1585)、豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が伊予に侵攻しました。湯築城は、1ヶ月の篭城の後に降伏しました。河野通直は命は助けられましたが、2年後に病没しました。湯築城は小早川隆景に与えられましたが、隆景の所領は筑前に移されました。
 天正15年(1587)、福島正則が城主となりましたが、国分山城に居城を移したため、湯築城は廃城となりました。堀や土塁など城の地割(じわり)が当時の姿のままよく残っています。平成14年(2002)に国の史跡に指定され、平成18年(2006)には日本100名城にも選ばれています。



子規記念博物館
しききねんはくぶつかん
愛媛県松山市道後公園1−30
Tel 089-931-5566


 子規記念博物館は俳人正岡子規を記念して昭和56年(1981)4月2日に開館した松山市の博物館です。死ぬ二日前まで、病に侵されながらも作品を発表し続けた正岡子規の世界をとおして、より多くの人びとに松山や文学について親しんだり、理解を深めてもらうために開設されたそうです。



一草庵
いっそうあん
愛媛県松山市御幸1−435ー1
Tel 089-948-6891


 「一草庵」は、自由律俳人、種田山頭火の終焉の場所で、昭和27年(1952)に再建されました。庭には句碑「おちついて死ねそうな草枯るる」が立てられています。
 山頭火は、大正15年(1926)、一笠一杖一鉢の行乞行脚の旅を始めました。雲水姿で西日本を中心に旅し、昭和7年(1932)、郷里山口の小郡町(現・山口市小郡)に「其中庵」を結庵しましたが、体調不良から来る精神不安定から自殺未遂を起こしました。
 昭和13年(1938)に湯田温泉に「風来居」を結びますが行乞を止めず、自然と一体となり、自己に偽らず、自由に一筋の道を詠い続けました。昭和14年(1939)12月、友人の好意により御幸寺境内に庵住、「一草庵」と名付けられました。在庵10か月、昭和15年(1940)10月11日に他界しました。享年59歳でした。



坊ちゃんカラクリ時計
ぼっちゃんからくりどけい
愛媛県松山市道後湯之町 放生園内
Tel 089-948-6557



 道後温泉駅の駅前にあります。平成6年(1994)、道後温泉本館100周年を記念して作られたそうです。8時から22時まで1時間ごとに時計がせり上がって、小説「坊ちゃん」の登場人物が現れます。
 この時計が建っている場所は昔、松山藩主によって作られた放生園です。正面方向が道後商店街、右に折れると道後温泉本館方面となっています。



松山城
まつやまじょう
愛媛県松山市丸之内1 城山公園内
Tel 089-921-4873


 松山城は加藤嘉明が築きました。嘉明は羽柴秀吉の家臣で、20才の時に賤ヶ岳の合戦で七本槍の一人として名をはせました。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功績により徳川家康より伊予の半国の20万石の所領を与えられました。
 嘉明は慶長7年(1602)、勝山に城郭を築くため、足立重信を普請奉行に任じて地割を行ない築城に取り掛かりました。翌慶長8年(1603)に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名前を使いました。
 松山城は、勝山山頂部分に本丸を置き、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸(城の内)を置き、北側に北の郭、東側に東の郭を設けた広大な城です。姫路城、和歌山城と並ぶ典型的な連立式平山城です。
 加藤嘉明は松山城が完成させた寛永4年(1627)に会津に転封されてしまいます。 そのあとは、蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入封しました。しかし在城7年目で京都で病没し、嗣子がいなかったために断絶してしまいました。
 その後寛永12年(1635)7月、伊勢国桑名11万石城主・松平定行が松山15万石に入封しました。以来、明治維新まで15代にわたって松平家が松山を治めました。
 松平家はもともと久松姓を名乗っていましたが、松平定行の父定勝が徳川家康の異母弟であったので松平姓と葵の紋を与えられたそうです。
 天明4年(1784)、落雷のため天守をはじめ多くの建物が焼失しました。藩の財政難のためなかなか再建されず、文政3年(1820)に再建工事に着手し、安政元年(1854)にようやく再建されました。
 天主をはじめ、門、櫓など21の建造物が国の重要文化財に指定されています。この時に再建されたものが中心になっています。
 乾櫓、野原櫓、隠門、隠門続櫓は慶長年間頃のものだそうです。昭和に入り小天守閣やその他の櫓が放火や戦災などのために焼失してしまいました。
 しかし天守をはじめとする櫓や門は威風堂々立ち並び、昭和41年(1966)からの総木造による復元工事も進み、本丸一帯の小天守、太鼓櫓などの建物も復元されました。



旧萬翠荘(久松定謨邸)
きゅうばんすいそう
愛媛県松山市一番町3ー3ー7
Tel 089-921-3711


 萬翠荘は、大正11年(1922)、旧松山藩主の子孫にあたる久松定謨(ひさまつさだこと)伯爵が別邸として建てました。定謨は松山藩最後の藩主久松定昭の嗣子です。
 久松伯爵はフランス士官学校に留学、陸軍駐在武官としてフランス生活をおくり、陸軍中将で旅団長まで務めた人物でした。フランス通で知られ、この建物も純フランス風の洋館となりました。
 設計は、欧米外遊から帰ってきたばかりの建築家、木子七郎が担当しました。この地方では最初の本格的な鉄筋コンクリート構造の建物です。木子は愛媛県庁本館、元の県立図書館等も設計しています。
 建物は、予定を繰り上げて大正11年(1922)11月に竣工し、陸軍大演習の後に来松された皇太子(後の昭和天皇)の宿泊所に充てられました。
 この建物は戦後、米軍将校宿舎となりました。家庭裁判所、県立郷土芸術館となったあと、昭和54年(1979)に美術館分館となって現在に至っています。昭和60年(1985)に愛媛県の有形文化財に指定されています。
 邸内にある井戸です。松山城築城当時に掘られたといわれ、今でも枯れることなく湧き出ています。夏目漱石も毎日この水を飲んだそうです。



愚陀仏庵
ぐだぶつあん
愛媛県松山市一番町3ー3ー7


平成22年(2010)7月に愚陀仏庵は倒壊しました。
大雨のため山腹の土砂が崩れ、跡形も残されておりません。


 愚陀仏庵は、夏目漱石が松山市に赴任していた時の下宿先です。当時、松山市二番町にあり上野義方邸の離れでした。そこは太平洋戦争の戦火によって焼失してしまいました。
 昭和57年(1982)に現在の萬翠荘裏に復元されました。夏目漱石の俳号が愚陀仏だったので愚陀仏庵としたそうです。
 52日間も俳人であった正岡子規が居候した時期もあったそうです。俳句結社「松風会」に参加し句会なども開いたようです。




伊佐爾波神社
いさにわじんじゃ
愛媛県松山市桜谷町173
Tel 089-947-7447


 135段の石段を登ると伊佐爾波神社の壮麗な社殿がそびえ建っています。社伝によると仲哀天皇、神功皇后が道後温泉に来浴された時の行在所跡に建てられた神社だそうです。
 湯月八幡とも呼ばれた延喜式内社です。仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、三柱姫大神を祭っています。
 全国に現存する3ヶ所の八幡造りの一つで、朱塗りの社殿の本殿、申殿及び廊下、楼門、廻廊、境内社、石灯籠は国の重要文化財に指定されています。
 加藤嘉明が、松山城の固めとして八社八幡を定めたとき、一番社として武運長久の祈願所となったそうです。
 伊佐爾波神社は現在の道後公園、伊佐爾波岡にあったのですが、建武2年(1335)、河野氏が湯月城を構えるに際して現在の所に移されたそうです。
 社殿は寛文7年(1667)、第3代松山藩主松平定長によって建造されました。定長は時の将軍に流鏑馬を命じられました。
 金的を射止めれば石清水八幡と同じものを建てると祈願し、見事に適中させたことから京都の石清水八幡、大分の宇佐八幡と並ぶ荘重な八幡造りの社殿を建立したのだと言い伝えられています。約3年の歳月をかけ社殿は完成しました。
 伊佐爾波神社の八幡造りは本殿と拝殿が連結されているのが特長です。正面から見ると神明造りのようなのですが、横から見ると同じ建物が2つ並んでいます。回廊には多数の絵馬が掛けられています。



大宝寺
たいほうじ
愛媛県松山市南江戸5丁目10ー1
Tel 089-922-6837


 大宝寺は真言宗豊山派の寺で、松山市西部の西山南麓にあります。大宝年間(701-703)、越智玉興による創建と伝えられています。
 大宝寺本堂は愛媛県最古の木造建造物で国宝に指定されています。正面3間、側面4間の寄棟造で本瓦葺きです。もとは茅葺でしたが延享2年(1745)年の修理の際に瓦葺きにしたようです。
 屋根の勾配はゆるく、軒は美しい二重垂木をなし、格子天井で、平安時代末期の阿弥陀堂形式を用いた鎌倉時代初期の建築と推定されています。
 堂内の厨子は寛永8年(1631)に作られたもので、正面3間、軒唐破風付、こけら葺き、和様に禅宗様の手法を加味した優れたものです。貞享2年(1685)再興の銘ある修理棟札とともに国宝に指定されているそうです。

 本堂には、重要文化財の木造阿弥陀如来坐像と、木造阿弥陀如来坐像、木造釈迦如来が安置されています。
 また本尊の薬師如来像は行基の作と伝えられています。



愛媛県護国神社
えひめけんごこくじんじゃ
愛媛県松山市御幸1ー476
Tel 089-925-2353


 愛媛県護国神社神社は、明治32年(1899)、県内の有志により、私祭招魂社として現在の東警察署付近に建立され、昭和14年(1939)に現在地に遷座し、愛媛縣護國神社となったそうです。
 戊辰の役、西南の役、竹橋事件、台湾守備、日清戦争などにおける愛媛県出身の戦没者の御霊を祀っています。

 松山城を築城した加藤嘉明、宇和島今治城主だった藤堂高虎、松山初代藩主の久松定行、宇和島初代藩主の伊達秀宗、文化人として尾藤二洲、近藤篤山、矢野玄道、正岡子規なども合祀し祭神は49720柱にも及んでいます。



石手寺
いしてじ
愛媛県松山市石手2−9−21
Tel 089-977-0870


 石手寺は真言宗豊山派の古刹です。神亀5年(728)、夢によってこの地を霊地と悟った伊予の大領であった越智玉澄(おちのたまずみ)によって創建されたそうです。四国八十八ヵ所の第51番札所でもあります。
 天平元年(729)に行基が薬師如来刻んで本尊として安置して安養寺として開基しました。宗派は法相宗でしたが、弘仁4年(813)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたそうです。
 寛平4年(892)、領主河野息利(おきとし)に男子が生まれたとき、衛門三郎が弘法大師から授かった小石を握っていたので、この石を寺に奉納し、寺名を石手寺に改称したといわれています。
 衛門三郎は、この地方の長者でとても強欲な人だったそうです。弘法大師とも知らずに、手にしていた鉢をたたき割ったそうです。鉢は砕けて八方に飛びちりました。その後、衛門三郎の8人の子が次々と亡くなったそうです。
 衛門三郎は改心して大師のあとを追いました。 四国巡礼21度目にやっと四国八十八ケ所第12番札所の「焼山寺」でやっと大師に巡り合いました。
 そして衛門三郎が力つきて亡くなる寸前に今までの罪を許されたのです。そのとき小さな石を手渡されたのでした。
 河野息利の赤ちゃんが右手に石を持って放さないので、安養寺に祈願に行ったら、やっと手のひらを開いたそうです。その石には衛門三郎と書かれていたのだそうです。
 石手寺は河野氏の庇護を受け平安時代から室町時代にわたり、7堂伽藍66坊を数える大寺院として栄えました。しかし、永禄9年(1566)、長宗我部元親による兵火をうけ建築物の大半を失ないました。
 本堂や仁王門、三重塔は奇跡的に焼失を免れました。本堂は本瓦葦きで、正面側面とも五間、単層入母屋造りの仏堂です。国重要文化財に指定されています。
 石手寺の山門(二王門)は国宝に指定されています。文保2年(1318)の建立です。雄壮な鎌倉時代の建築の特徴がよく表れています。金剛力士像は鎌倉時代の作で寺伝では運慶一門の作といわれています。



太山寺
たいさんじ
愛媛県松山市太山寺町1730
Tel 089-978-0329


 瀧雲山太山寺は、愛媛県松山市にある真言宗智山派の寺院です。四国八十八箇所霊場第52番札所になっています。
 嘉元3年(1305)の建立の入母屋造り、本瓦葺きの本堂は国宝に指定されています。入母屋造り八脚門の仁王門は国の重要文化財です。
 7体の木造十一面観音立像も国の重要文化財に指定されています。
 太山寺には「一夜建立の御堂」伝説が伝えられています。
 飛鳥時代の用明天皇2年(587)、豊後国臼杵の真野の長者という者が難波に船で向かう途中、高浜の沖で嵐に遭遇したそうです。
 長者は平素から信仰する観音に無事を念じました。すると山頂から光が差し嵐がやみました。光の差した場所に行ってみると十一面観音を祀った堂があったそうです。
 長者は感謝して、そこに寺院を建てようと豊後より一晩で木材を運んだそうです。そして、山腹に一夜にして寺院を建立したということです。
 天平5年(733)、聖武天皇の勅願により行基によって本尊の十一面観音が安置され、天平勝宝元年(749)に現在の地にきたそうです。嘉元3年(1305)伊予国守護河野氏によって本堂が再建され、松山城主加藤氏の庇護を受けて栄えました。



浄土寺
じょうどじ
 愛媛県松山市鷹子1198
Tel 089-975-1730


 西林山浄土寺は、真言宗豊山派の古刹です。院号は三蔵院。本尊は釈迦如来。四国88箇所霊場の第49番札所です。
 天平年間に孝謙天皇の勅願を受けて恵明(えみょう)上人が開きました。本尊の釈迦如来像は行基が刻んだそうです。
 当初は法相宗でしたが、空海(弘法大師)が伽藍を再興した時に真言宗に改宗したということです。平安時代中期の天台宗の僧空也が天徳年間にこの寺に滞在して布教に努め浄土宗になったそうです。
 空也は醍醐天皇の息子だそうです。上人立像は空也上人が刻んだといわれています。空也は天徳年間(957-960)の頃ここを訪れ、3年後にこの地を去って行きました。村人が名残りを惜しんでせめてお姿なりともという懇願により自像を刻んだそうです。
 本堂は建久3年(1192)、源頼朝は堂宇を修復しました。しかし応永23年(1416)に兵火で焼失してしまいました。現在の本堂は文明14年(1482)、河野通宣の手で再建されたものです。
 この本堂は和様と唐様の折衷の代表作の建物で国の重要文化財に指定されています。木造空也上人像も同様に重要文化財です。
 浄土寺には、浄土宗の開祖円光大師、二世聖光上人、三世良忠上人の自作の像があったところから三蔵院と呼ばれています。



円明寺
えんみょうじ
愛媛県松山市和気町1ー182
Tel 089-978-1129


 「和気の円明さん」の愛称で親しまれている円明寺です。四国八十八箇所霊場の第53番札所です。
 聖武天皇の勅願所で、天平勝宝元年(749)に、行基が阿弥陀如来像を刻み安置したのが開基しました。和気の海浜西山に創建し海岸山円明密寺と号し、五重塔をはじめ七伽藍堂を備えた大寺院として繁栄しました。
 その後、弘法大師が諸堂を整えましたが、鎌倉時代に度重なる兵火により焼失してしまいました。寛永10年(1633)に、須賀重久が現在の地に再建したそうです。
 寛永13年(1636)には御室の宮覚法親王の命旨を受けて仁和寺の直末となり、須賀山正智院円明寺と号しました。
 本堂には慶安3年(1650)奉納の銅製の納札があります。シカゴ大学のスタール教授によって発見されました。
 大師堂近くの境内に、隠れキリシタンの十字架形燈篭があります。マリアとおぼしき像が刻まれています。高さは40cmほどで、キリシタン禁制の江戸時代に、秘かに信仰していたのでしょう。



伊予かすり会館
いよかすりかいかん
愛媛県松山市久万ノ台1200
Tel 089-922-0405


 松山出身の鍵谷カナという娘さんによって始めて作られた伊予絣は、久留米絣、備後絣と並んで日本3大絣の一つに数えられています。90年以上の歴史を持つ伝統工芸品、その伊予絣の製造工程が見学できるのが、民芸伊予かすり会館です。



内子の町並み
うちこのまちなみ
愛媛県喜多郡内子町


  江戸末期から明治にかけて、和紙と木蝋で栄えた内子は、豊かな富の蓄積が、文化の殿堂”内子座”を建設しました。
 内田康夫著『ぼっちゃん殺人事件』の舞台となった内子町の内子座は大正時代の芝居小屋を再現してよみがえりました。
 古い町並みが保存されています。家々の表情を醸し出す造形美は、懸魚・海鼠壁・床几・蔀戸・うだつ・虫籠窓・鬼瓦鳥衾などに残っています。


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