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日本の旅
山陽の旅    広島・福山・尾道・宮島

福山
ふくやま
 福山市は広島県の東南端、岡山県に接する県東部の中核都市です。福山は元和5年(1619)水野勝成が備後10万石の領主となり,福山と命名したのが始まりといわれています。
 福山の地名は福山城にある常興寺山が、「蝙蝠山(こうもりやま)」ともいわれていて「蝠」が「福」に通じることから、「福山」の名で呼ばれるようになったといわれています。
 市内の南に位置する鞆の浦は、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、古くから海上交通の要所でした。伝統漁法の「しばり網」も残る港町でもあります。多くの古寺・史跡が残っています。
  1916年、人口約32万人の福山市が誕生しました。その後、周辺市町村と次々と合併したりして47万人弱の人口を有する大都市になっています。
 福山市は元々地場の繊維産業を中心とする軽工業に支えられた地方都市でした。昭和36年(1961)単一工場としては世界最大という日本鋼管福山製鉄所の立地決定でますます発展します。
 この誘致には福山市名誉市民で内閣総理大臣にもなった宮澤喜一氏の働きが大きかったようです。 



ふくやま美術館
ふくやまびじゅつかん
広島県福山市西町2-4-3


 ふくやま美術館は福山城と隣接した公園型美術館です。広い敷地には真っ赤なアーチ型のオブジェや噴水、彫刻があり憩いの場ともなっています。

 デ・キリコなどイタリアの現代画家の作品や日本の現代抽象画家、瀬戸内海ゆかりの画家の作品も紹介しています。
 島村抱月、松井須磨子により設立された劇団「芸術座」の舞台主任でもあった福山市出身の小林徳三郎の作品などもあります。



福山城
ふくやまじょう
広島県福山市丸之内1-8


 元和5年(1619)徳川家康の従兄弟・水野勝成(かつなり)が福山十万石の領主となって築城しました。父の水野忠重が徳川家康の母伝通院の弟であるので家康とは母方の従兄弟にあたる関係です。
 天守閣は昭和41年(1966)の再建されたものです。現在内部は博物館になっています。歴代藩主の遺品や福山を中心とした備後地方の歴史と文化に関する貴重な資料が公開されています。
 京都の伏見城から移築されたという伏見櫓と筋鉄御門(すじがねごもん)は昔の姿を残す遺構となっていて国の重要文化財に指定されています。
 元和5年(1619)安芸、備後を治めていた福島正則が改易となりました。そのため安芸に浅野長晟、備後に水野勝成が入封しました。
 水野勝成は当初、神辺城に入城しました。神辺は山間地で城下町の発展が見込めなかったためこの場所に城郭を築こうとしたのでした。
 元和6年(1620)に大水害が襲い築城工事は困難を極め、人柱伝説もうまれたそうです。城を完成させるため神辺城の築材を使い、幕府からも伏見城の遺材も下賜されました。この時、移築されたのが伏見櫓なのです。
 山陽道の要衝を守る地として幕府は重要視しており、建築資金として幕府公金から金12600両・銀380貫が貸与されたそうです。苦難の末、4年がかりで、元和8年(1622)ようやく5層6階の天守閣が完成しました。そしてこの地も福山と名付けられたのです。
 福山城は、敵追山(てきおい)(鉄覆山)朱雀院久松城、またの名を葦陽(いよう)城ともいわれています。当時は、福山城の外堀と海は入江で結ばれ、すぐ近くまで船が来れたようです。
 元禄10年(1697)水野家は勝成のあと、勝俊、勝貞、勝種、勝岑と続きましたが5代にして断絶してしまいました。
 そのあとに松平忠雅が入りましたが水野遺領15万石のうち 再検地が行われ約5万石は天領となったそうです。下野宇都宮より阿部正邦が入封しました。これ以後は阿部家が支配しました。徳川幕府の幕閣の参政者を出し幕府を支えました。
 三代正右、四代正倫、五代正精、七代正弘は徳川幕府の老中となっています。なかでも阿部正弘は切れ者として有名で幕末の困難な政局を背負い、日米和親条約を結びました。



尾道
おのみち
 広島県東南部の瀬戸内海沿いの港町です。海岸近くの細長い平坦地を除いて、丘陵や山のある地形です。昔は玉浦と呼ばれた風光明媚な尾道港が中心になっています。
 室町時代以降は対明貿易の拠点となり、江戸時代には回船問屋の建ち並ぶ商港として発展してきたそうです。
 尾道駅から見ると立派に見える尾道城です。城の前には人形の門衛が立っていましたが写真を撮ろうにも中にも入れず閉鎖されていました。城も痛みがひどくがっかりしました。
尾道城
 この城は観光目的でホテルのオーナーが建てたものだったのです。城の付近にはつぶれかかった家や古いホテルなどがあり、千光寺公園の続きにあるのにおかしく感じさせました。ただ景色は良かったです。

 古い伝統を持つ尾道ですが道路は狭く、標識もなく整備されていない感じです。ロケ地に使われていてここからたくさんの映画が作られたようですが、どこにでもあるごちゃごちゃした場所がほとんどでした。
 万葉集には
 「ぬばたまの 夜は明けぬらし
    玉浦に
  あさりする 鶴(たず)鳴き渡るなり」
 と詠まれているところです。



千光寺公園
せんこうじこうえん
広島県尾道市東土堂町


 尾道市街の背後にある千光寺山南山腹に広がる公園です。隣の千光寺の多田住職が明治36年(1903)公園にと約1350坪を尾道市へ寄付したことから誕生したそうです。
 古くから山陽道の景勝地として知られていました。ここから瀬戸内海の風光をめでるために多くの文人、墨客が訪ねました。志賀直哉、林芙美子、十返舎一九、頼山陽、正岡子規など尾道にゆかりの深い人の詩歌が刻まれています。
 文学のこみちの中ほどには、林芙美子の「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。・・・」という放浪記の一文が刻まれています。
 頼山陽の像です。「盤石座す可く松拠る可し 松翠缺くる処海光露わる 六年重ねて来たる千光寺 山紫水明指顧に在り・・・」文政12年千光寺山に登ったときの作だそうです。山陽は広島県竹原市の出身で「日本外史」「日政記」などを著わしています。
 陣幕久五郎の手形です。島根県出身で尾道に出て江戸で角力道に精進し、第12代横綱となった人物です。

 「うけながら
    風の押す手を 柳かな」    
 尾道大菊人形展が千光寺公園で行なわれていました。春は一万本の桜が咲き乱れるそうです。この千光寺公園は桜百選にも選ばれているそうです。この桜は尾道の市の木、花に指定されているのだそうです。
 千光グリーンランドが園内にあります。ほんとに小さな遊園地で小さな子が楽しめます。メリーゴーランドや、観覧車、汽車、サイクルモノレール、ジェットコースターなどあります。



尾道市立美術館
おのみちしりつびじゅつかん
広島県尾道市西土堂町17-19


 尾道市千光寺公園内に建つ「尾道市立美術館」は平成15年(2003)1月、建築家・安藤忠雄氏の設計によりリニューアルオープンした美術館です。
 この美術館は市内にある西郷寺本堂をイメージして建てられたそうです。館内の喫茶コーナーやロビーからは、尾道市街を一望できます。
 年間を通して尾道市ゆかりの美術品をはじめ、郷土の歴史民俗資料、尾道遺跡出土品などを紹介しています。



千光寺
せんこうじ
広島県尾道市東土堂町15−1


 千光寺山(大宝山)の南腹に建つ大宝山千光寺です。本尊は千手観世音菩薩で伝聖太子が創られたものだといわれています。火伏せの観音さまとして有名です。
 大同元年(806)開基の名刹です。源(多田)満仲の中興といわれる古寺です。満仲は源氏興隆の祖先になります。
 朱塗りの本堂は懸崖造りで「赤堂」と呼ばれています。左は地蔵堂です。本堂の横には巨大な奇岩「三重岩」(みかさねいわ)が迫っています。その下にはお地蔵様が鎮座していました。
 古来伝説によると、昔、夜になると港町の尾道の海上や町を照らし、船の安全に一役かったと伝えられる巨岩・玉の岩(宝珠岩)が岩のてっぺんにあったそうです。
三重岩
 残念ながらこの宝玉は、外国人にだまし取られたといわれていますが、現在は七色に光る電飾の玉が乗っています。この伝説から光を照らしたこの宝玉のあるお寺を、「千光寺」と呼ぶようになったといわれているそうです。
千光寺本堂
 玉の岩の他にも千光寺には「ポンポン岩」、「梵字岩」、「鏡岩」、「夫婦岩」など、たくさんの不思議な岩があります。
 崖上に張り出した舞台造の本堂からは尾道市街や尾道水道が一望できます。尾道水道は狭い海峡です。渡船の航路は4本もあるそうです。対岸は向島町です。
 境内の前面には除夜の鐘でおなじみの竜宮造の鐘堂「驚音楼」があります。「残したい“日本の音風景100選”」にも選ばれています。
驚音楼
 千光寺山の中腹から、尾道の町に、驚音楼の美しい音色を響かせています。ここからも風光明媚な瀬戸の島々と尾道市街を一望できます。
 寒暁に鳴る
    指弾せしかの鐘か

         山口 誓子
 「岩割の松」がありました。松の根が岩を割って張り付いています。それにしても、この千光寺には不思議な岩や奇岩が数多く見受けられました。
 滑車が上にあり数珠を引っ張り回しています。回すと、コトンと大きな音を出します。数珠は108個あり1つ1つ回しながら、煩悩を落としていくのです。



西国寺
さいこくじ
広島県尾道市西久保町9-27


 尾道市街の北側、愛宕山南腹にある西国寺です。真言宗西国寺派の巨刹として知られ西国寺派の本山になっています。
 西国寺仁王門です。県下唯ーの本格的楼門形式で県の重要文化財に指定されています。軒先には大小さまざまなわらじが吊されています。
 2mの大わらじは遠くからでもすぐ目に付きます。仁王様のような丈夫な足になるようにという願いが込められています。自分でわらじを編んで奉納すると足の病に効くという「大わらじの寺」として有名になっています。
 西国寺は天平年間(729〜749)に行基が開いたといわれています。大ぞうりのある仁王門をくぐると108段ある石段が待ち構えています。

 西国寺三重塔です。国の重要文化財に指定されています。3間3面の3層塔婆で屋根は本瓦葺きです。純和風の室町前期の復古調建築です。
 足利6代将軍足利義教が建寄進したものだそうです。永享元年(1429)宥尊によって塔建立の勧進が行なわれています。建築以来災禍に遭遇することなく550年の風雪をしのいで現在に至っているそうです。
 西国寺金堂です。この建物も国の重要文化財に指定されています。桁行正面5間、梁間5間、一重、入母屋造で屋根は本瓦葺きです。
 唐様を加味しながらも和風の風格が強く、古代に忠実な復古調の建築です。堂内の須弥壇、厨子も同時代のものです。
 厨子の中には秘伝の薬師如来座像が安置されているそうです。弘仁年間(810-824)に空海が創ったものと伝わっているそうです。
 境内は広大で護摩堂、大師堂、弥勒堂、毘沙門堂、客殿、庫裏などの諸堂宇があり、愛宕山をバックに甍を重ねています。



浄土寺
じょうどじ
尾道市東久保町
 尾道市街の東端、浄土寺山の南麓に建つ浄土寺は616年に聖徳太子によって開創されたといわれる中国地方屈指の名刹です。足利尊氏ゆかりの寺としても有名です。境内入口の山門は国の重要文化財に指定され1330年頃再建された建物です。
浄土寺山門
 山門を入ったところにある本堂は国宝です。嘉暦2年(1327)建立されています。和様を基調にしながら細部には桟唐戸などを用いた折衷型の鎌倉末期の遺構です。本堂本尊は秘仏の木造十一面観音菩薩立像でこれも重要文化財です。
浄土寺本堂
 1345年に再建された阿弥陀堂は室町初期の建築で国の重要文化財です。均整の取れた美しい和様の建物で、質素ながら優美さを感じさせます。奥庭には伏見城から移築したといわれる茶室「露滴庵」があります。これも国の重要文化財です。
浄土寺阿弥陀堂
 本堂と同じ時に建立された国宝の多宝塔です。多宝塔としては規模が大きいうえに全体の釣り合いがよくとれています。ボタン、唐草に蝶の透かし彫りを施すなど細部の装飾も立派です。
浄土寺多宝塔



因島大橋
いんのしまおおはし
広島県尾道市因島〜向島


 布刈瀬戸(めかりせと)に架かり、向島と因島をつなぐ端正な美しさを持った橋です。昭和58年(1983)東洋一のつり橋として完成しました。橋長1270mの吊橋です。
 海面から主塔までの高さは145mあり、上部は自動車専用道路になっていて下部は歩行者・自転車用道路という上下二段構造になっています。
 因島大橋ケーブルアンカーフレームです。総重量は4基合わせて1935トンもあります。ストランド定着部には1本定着の場合35本のものが4基あり、一本当り150トンの張力が働くそうです。
 因島大橋のケーブルです。ケーブルの長さは1360m、直径は61cmだそうです。ケーブルのストランド数は91本、ストランドの素線数は127本、ケーブルの素線数は11557本、ケーブルの全重量は5200トンもあるそうです。



因島水軍城
いんのしますいぐんじょう
広島市尾道市因島中庄町3228-2
Tel 0845-24-0936
 金蓮寺の右手にある小高い丘の上に建つ国内唯一の水軍城です。昭和58年に歴史家の奈良本辰也氏の監修で建てられました。丘の上に本丸、二の丸、隅櫓の三棟が蘇りました。
 本丸は水軍資料館として小早川隆景から拝領した甲冑や武具などの歴史資料を展示しています。隅櫓は展望台と船の資料館になっています。
 因島は室町時代から戦国時代を通して活躍した村上水軍の拠点として知られています。村上水軍には「因島村上」「能島村上」「来島村上」の三家があったそうです。
 南北朝から戦国にかけては、村上水軍の威勢は大いにふるい布刈瀬戸(めかりせと)と尾道水道をおさえ、ここを通る船から帆別銭(通行税)を取ったのでした。
 八幡大菩薩の旗をかかげ朝鮮、中国から遠く東南アジアまで航海・貿易と水軍の三位で押し渡り、「倭寇(わこう)」の名を海外にとどろかせました。
 村上水軍は南朝の後醍醐天皇の懐良親王を助けた村上義弘が頭角を現し基盤を確立したと伝えられています。
 本丸の水軍資料館には、純金家紋付鉄錆地色具足、村上家相伝の由緒ある白紫緋色段縅腹巻などの武具や村上家伝来の古文書を展示しています。
 また重要美術品の大塔官令旨や源平合戦屏風、金蓮寺在銘瓦などもあります。水軍史がわかる水軍船の模型も復元され、水軍旗なども展示されています。
 村上水軍が最大に勢力を拡大した頃は、西は山口の上関、東は香川の塩飽諸島とほぼ瀬戸内海全域を制海したといわれています。
 能島村上家の村上武吉は毛利家の家臣となったそうです。織田水軍(九鬼)と2度戦いましたが、2度目の戦いで織田水軍が仕立てた鉄甲船の前に大敗し、次第に勢力を弱めていったそうです。
 豊臣秀吉は海上の権力を警戒し海賊禁止令を出しました。村上武吉は毛利家を頼って山口の屋代島に移っていったそうです。
 フルーツの島といわれるだけあってみかん畑が広がっていました。ハッサクは因島が原産だそうです。幕末に発見された突然変異種で、年間生産量3千トンは、県内の3分の1強を占めるそうです。



因島市史料館
いんのしまししりょうかん
広島県尾道市因島中庄町3222−2
 戦国時代に村上水軍の拠点になるなど、水運業で栄えた因島に暮らす人々の生活、郷土文化を伝える史料館です。因島の主要産業である漁業・農業用具、生活用具、生産用具なども展示・紹介しています。
 因島市史料館の横にある「盃状穴のある灯明台」です。元重井町一本松にあったものだそうです。この穴の発生は古代からで再生、子宝、安産、豊作、病気平癒などを願って彫ったそうです。庶民の呪術、信仰を知る重要な民俗文化財なのです。
 隣り合わせの海の歴史民俗資料館の前には作家村上元三の句が詠まれていました。



金蓮寺
こんれんじ
広島県尾道市因島中庄町寺迫区3225
Tel 0845-24-0393
 曹洞宗の金蓮寺は村上水軍の菩提寺で、 宝徳2年(1450)青陰城主であった村上備中守吉資の創立といわれています。
 村上家が周防に移ってから廃寺同様になっていましたが、長福時九世大巧百拙和尚が再興し、 現在に至っています。
 かつて金蓮寺は中庄町の東南、外浦町の谷間にあったそうです。
 因島市の天然記念物に指定されている「金蓮寺のモッコク」です。木の高さは10mぐらい、幹の周りは2mぐらいだそうです。

村上水軍の墓地
 墓所には村上家歴代当主の宝篋印塔十八基や五輪塔が多数残っています。金蓮寺が現在地に移ったときに分散していた石塔などを裏山に集めたそうです。
 そのために石塔が誰の墓塔であるかわからなくなってしまったそうです。瀬戸内海の中世の武将は宝篋印塔を墓とした例が多く貴重な遺産になっています。



生口橋
いくちばし
広島県尾道市瀬戸田町
 生口橋は因島と生口島の間に架かっている橋です。全長790mで平成3年(1991)12月に完成しました。当時は世界一でしたが現在は隣の多々羅大橋が世界一になっています。
 橋梁形式はファン形斜張橋です。斜張橋として世界第9位の大きさがあるそうです(1999年5月現在)。横浜ベイブリッジより大きいのだそうです。



耕三寺
こうさんじ
広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田553−2
Tel 0845-27-0800
 母の寺として有名な耕三寺はもと実業家で初代住職の耕三寺耕三和上が母の菩提寺として建立した浄土真宗本願寺派の寺です。
山門
 昭和11年(1936)から30年あまりの歳月をかけて造られた堂塔は、国宝建造物を手本として建てられています。山門は京都御所の紫宸殿と同じ様式で、ここをくぐると奈良法隆寺の楼門と同じ様式の中門に出会えます。
山門
 堂塔は飛鳥、奈良、平安、鎌倉、江戸など各時代の建築様式を取り入れています。その内の15棟は国登録有形文化財に指定されています。
 約1万5千坪の寺域の伽藍の配置の特徴は上・中・下三段から構成されています。南北を貫く軸線を中心として左右対称に堂塔が配置されているのです。
五重塔
 中門を抜けると右側に鼓楼、左側に奈良新薬師寺を真似た鐘楼があります。そのまま中心線の先の本堂に向かって石段を登ると中心に五重の塔がそびえています。室生寺の五重塔をコピーしたものだそうです。色が鮮やかすぎて同じようには見えませんでした。
五重塔
 五重塔の右側には近代美術展示館を兼ねた法宝蔵が建っています。大阪四天王寺の金堂を真似たものだそうです。金堂は江戸時代に再建されましたが大阪空襲の際焼失したそうです。
法宝蔵
 この法宝蔵の中には耕三寺耕三が蒐集した潮聲閣コレクションの近代美術部門の名品が展示されています。
法宝蔵
 五重塔の左側には茶道美術展示館を兼ねた僧宝蔵があります。これも大阪四天王寺の金堂を真似ていますが鴟尾のかわりに獅子口を乗せています。
僧宝蔵
 僧宝蔵には耕三寺耕三が蒐集した潮聲閣コレクションの茶道関係の器とか茶器などが展示されています。
僧宝蔵
 五重塔から本堂に向かって石段を登ると孝養門という見たことのある門があります。日光東照宮の陽明門のコピーです。その左右には日野法界寺の阿弥陀堂のコピーの至心殿、信楽殿があります。
孝養門
 耕三寺に参拝にきた人々が極彩色の堂塔を見て「日光のようだ」と言っていたのを耕三寺耕三和上が心に留め、昭和28年(1953)9月に日光陽明門の原寸復元を心に決めたそうです。
孝養門
 その際に実測図面が必要になり文部省に一組あった図面を申請して入手したそうです。工匠を日光に派遣して研究し、昭和29年(1954)1月に造営しました。
孝養門
 木組み、寸法などは陽明門と同じですが、彫刻、金具、彩色などは仏教様式を取り入れ、大正、昭和の名彫刻家が制作に取り組んだそうです。
孝養門
 孝養門より本堂を見ると本当に極楽浄土のように映ります。中国の堂塔を真似て日本で建てられた当時はこんな感じではなかったと思われます。
孝養門より本堂
 本堂は宇治平等院の鳳凰堂のコピーです。入母屋、切妻、宝形などの屋根形、肘木、垂木の大面取や格天井、彩色など藤原時代の手法によっているそうです。
本堂
 中堂の外陣柱を丸柱にして彫刻を施し、翼廊は御名号や絵像を安置するため一層と二層を同じ高さにしています。
本堂
 本尊は方便法身阿弥陀如来立像です。耕三寺は昔、冷泉中納言卿の荘園があったところに建てられているそうです。
本堂
 重要文化財に指定されている釈迦如来座像です。もと奈良興福寺講堂の本尊だったそうです。像の高さは2.3mで流麗穏和な定朝の流れをくむ藤原仏です。
釈迦如来座像
 日野法界寺の阿弥陀堂のコピーの信楽殿です。反対側にある至心殿と同じ造りです。宝形造りで外陣柱や肘木、虹梁などの大面取、内陣の丸柱、板戸など藤原時代の優美な建築様式の特徴を現わしています。
信楽殿
 聖徳堂とも呼ばれる八角円堂です。聖徳太子の御座所であったといわれている奈良法隆寺の夢殿を縮めて復元建立しています。
八角円堂
 我が国最古の多宝塔といわれている近江の国の石山寺のコピーです。昭和16年に建立されたそうです。藻階が方形で塔身は円形です。
多宝塔
 救世観音大尊像です。奈良法隆寺夢殿の本尊を手本として造られました。身の丈10m、台座などを入れますと15mもの大露仏です。
救世観音
 銀閣寺を真似た銀龍閣の近くにある茶祖堂の庭園です。池には錦鯉が泳いでいました。
 耕三寺の境内にある地下霊場の千仏洞地獄峡です。横洞は350mあり、最深部は15mです。昭和36年(1961)に着工し完成まで3年をかかった大工事だったそうです。
千仏洞地獄峡
 浄土宗の祖である源信和上(恵心僧都)の著された「往生要集」を視覚で体感するために造られたそうです。入口は本堂の右手にあり、救世観音大尊像あたりに出てこられるようになっていました。
千仏洞地獄峡
 洞内は富士山と浅間山から運んだ溶岩が積み上げてあり「往生要集」の十界の各場面が表現されています。中には石仏が千体奉納され、地獄絵図がたくさん描かれていました。内部には池や滝もあり、極楽ゾーンには見上げるように仏たちが積み上げられていました。
千仏洞地獄峡
 特別天然記念物に指定されている大山椒魚です。本州の岐阜県以西と四国、九州の一部に生息しています。世界最大の現生両生類なのです。体長は50〜60cmぐらいですが、中には1mを越えるものもいるそうです。餌がなくても1年は生きることができ寿命は100年以上あるそうです。
大山椒魚
 書院の潮聲閣は耕三寺建立発願の源ともいうべき建造物で境内の東北隅に位置しています。書院造を主とした日本住宅と西洋風住宅である洋館とを複合させた大邸宅で、純粋な住宅建築となっています。
潮聲閣
 潮聲閣の名は、これを着工した昭和2年瀬戸田に来遊した貴族院議員の三室戸敬光が選名し、表玄関には同氏の筆による扁額を掲げています。耕三寺耕三が母親のために作った書院で、内部は贅を尽くしています。
潮聲閣

未来心の丘
 5千平方メートルにおよぶ白い大理石の庭園です。丘にそびえ立つ大小さまざまな形をしたモニュメントや広場、道など別世界が展開されています。
 広島県出身の彫刻家、杭谷一東(くえたにかずと)氏が12年の歳月をかけて製作したそうです。白く見えるのは全てイタリアはカッラーラの大理石なんだそうです。

金剛館
 昭和43年(1968)に、指定文化財の展示のため「新宝物館」が建てられ、平成9年にはリニューアルをし「金剛館」に改められました。
 耕三寺には古今東西の名品1900点余りが集められています。
 この中で国指定の重要文化財、重要美術品は55点もあるそうです。興福寺講堂本尊の釈迦座像、北円堂の持国天、伊勢神宮寺の釈迦立像などはとりわけ逸品です。



平山郁夫美術館
ひらやまいくおびじゅつかん
広島県尾道市瀬戸田町沢200−2
  Tel 0845-27-3800
 仏教伝来や、シルクロードを描いたシリーズで知られる日本を代表する人間国宝の画家平山郁夫氏の美術館です。平成9年(1997)に開館しています。
 平山郁夫氏は昭和5年(1930)この瀬戸田町の生口島で生まれたそうです。故郷を描いた作品には「しまなみ海道五十三次」があります。しまなみ街道に沿って約60点の水彩素描画が描かれています。
 新作の展示のほかに生い立ちや少年時代の絵画、取材アルバムや書簡、東京美術学校時代のスケッチ、ふるさと瀬戸田の作品など貴重な作品を多数収蔵しています。
 平山郁夫氏は昭和20年(1945)旧制中学3年の時、広島で被爆し後遺症にも悩まされたそうです。まさにここは平山芸術の原点に戻れる美術館なのです。



向上寺三重塔
こうじょうじさんじゅうのとう
広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田57
 平山郁夫氏は少年の頃、この向上寺の裏山で遊んだそうです。そしてこの三重塔を中心とする構図で写生したそうです。国宝の向上寺の前身は応永10年(1403)三原仏通寺の開祖、愚中周及により開山したといわれています。
 その後、生口隆平・守平親子や生口氏と深い関係にあった小早川元信・信昌らによって、建物の増改築が行われ応永21年(1414)に向上寺と改名したそうです。
 向上寺内にある三重塔は、永享4年(1432)当時の生口島の領主である小早川元信・信昌によって建立されたそうです。昭和33年(1958)に国宝に指定されています。
 高さ19m、室町時代の禅僧建築の粋を集めた唐様式と和様式の折衷となっています。各層高欄を支える四隅の親柱の飾り付けが逆蓮華になっているのが特徴です。須弥壇高欄親柱が唐様で二重開花蓮の上に宝珠がある珍しい建築方法だそうです。



大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)
やまとみゅーじあむ(くれしかいじれきしかがくかん)
広島県呉市宝町5−20
Tel 0823-25-3017


 大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)は総事業費約65億円をかけて平成17年(2005)に、世界最大の戦艦「大和」を生んだ呉市にオープンしました。入館者数は、広島県内の有料観光施設ではトップになっています。
 戦艦「大和」を中心に、明治以降における日本の近代化の歴史そのものである「呉の歴史」、その礎となった造船・科学技術を紹介しています。
 館内には、10分の1戦艦「大和」が展示されています。大型資料展示室の零式艦上戦闘機や人間魚雷「回天」、特殊潜航艇「海龍」、戦艦「金剛」のボイラーなどは、すべて本物が展示されています。
 屋外には、戦艦「陸奥」の主砲身や潜水調査船「しんかい」などの実物も展示されています。「大和」を通して、呉の歴史や平和の大切さ、科学技術のすばらしさを今に伝えています。
 映画「男たちの大和/YAMATO」の撮影の際、尾道市向島町にあった戦艦大和実寸大オープンロケセットの不足部分を補うため、CGの合成用素材として使用されました。
 映画撮影後に解体されたロケセットの一部は呉市へ寄贈され、平成18年(2006)、大和ミュージアムの資料修復保存施設(旧海事博物館推進室敷地内)に搬入され、同館の第2駐車場ビル2階に展示されています。



呉市立美術館
くれしりつびじゅつかん
広島県呉市幸町 入船山公園内
Tel 0823-25-2007


 呉市立美術館は昭和57年(1982)市政80周年を記念して開館しました。入船山公園にある美術館への緩やかな坂道には彫刻が点在し、「日本の道100選」に選ばれています。
 ロダン,マイヨールとともに近代彫刻の巨匠として名を馳せたエミール・アントワーヌ・ブールデルの「弓をひくヘラクレス」の彫刻や、オーギュスト・ルノワール「麦わら帽子の少女」があります。
 奥田元宋や平山郁夫などの郷土画家を中心に国内外の秀作約900点を所蔵しています。



広島
 安芸、備後の2国からなる広島県は古くから文化や産業が栄えたところです。安芸の国は広島市を中心に山陽道の要所にあり、備後の国は瀬戸内海沿岸を中心に発展しました。
 大和朝廷の出先機関である太宰府への順路に当るため早くから官道の整備がなされたそうです。水運も同様で鞆の浦などの港から遣唐使が派遣されたり、外国の使者などを迎えたりして栄えたそうです。
広島市民球場
 大正元年(1912)路面電車が広島市内を走り出しました。それ以来、現在まで市民の足として走り続け広島の顔ともなっています。原爆に耐えた車両などもあるそうです。



平和記念公園
へいわきねんこうえん
広島県広島市中区中島町
 昭和20年(1945)8月6日、人類史上初めて投下された原子爆弾が広島のこの地区の頭上で炸裂しました。ここの住民や疎開作業に従事していた国民義勇隊や動員学徒など多く人が一瞬のうちに消え去ってしまったのです。
 昭和24年(1949)8月6日の「広島平和記念都市建設法」の制定にともない、この地区一帯は平和記念施設として整備されることとなり、現在の平和記念公園に生まれ変わったのです。
 公園の面積は約12万2千平方メートル(約3万7千坪)あり、設計は、丹下健三氏が担当しました。園内には多くの樹木や花が植えられ緑豊かな公園になっています。
 広島平和記念資料館、原爆死没者慰霊碑、平和記念館、原爆の子の像など平和を祈る数々の施設やモニュメントが点在しています。
 毎年8月6日には平和記念式典が催されています。その日の夜は元安川をはじめ市内を流れる6つの川で犠牲者への慰霊のとうろう流しが行われます。



原爆ドーム
げんばくどーむ
広島県広島市中区大手町1−10


 爆弾はこの建物のほぼ直上約600mの空中で爆発したそうです。1個の原子爆弾によって20万をこえる人々の生命が失なわれ半径約2kmに及ぶ市街地が廃墟と化したのでした。
 被爆当時から残る数少ない建物の一つであることから、世界平和のシンボルとして世界遺産に登録されました。
 相生橋の南側、元安川に面して立つこの建物はいつしか原爆ドームと呼ばれるようになりました。広島県産業奨励館だったそうです。
 



平和記念公園
へいわきねんこうえん
広島県広島市中区中島町〜大手町


 昭和20年(1945)8月6日、人類史上初めて投下された原子爆弾が広島のこの地区の頭上で炸裂しました。ここの住民や疎開作業に従事していた国民義勇隊や動員学徒など多く人が一瞬のうちに消え去ってしまったのです。
  昭和24年(1949)8月6日の「広島平和記念都市建設法」の制定にともない、この地区一帯は平和記念施設として整備されることとなり、現在の平和記念公園に生まれ変わったのです。
 公園の面積は約12万2千平方メートル(約3万7千坪)あり、設計は、丹下健三氏が担当しました。園内には多くの樹木や花が植えられ緑豊かな公園になっています。
 
 広島平和記念資料館、原爆死没者慰霊碑、平和記念館、原爆の子の像など平和を祈る数々の施設やモニュメントが点在しています。
平和の鐘
  毎年8月6日には平和記念式典が催されています。その日の夜は元安川をはじめ市内を流れる6つの川で犠牲者への慰霊のとうろう流しが行われます。
平和の時計塔



原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)
げんばくしぼつしゃいれいひ(ひろしまへいわとしきねんひ)
広島県広島市中区中島町 平和記念公園内


 平和記念公園の中央に立つこの碑は昭和20年8月6日、世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を平和都市として再建することを祈念して建てられたものです。中央の石室には原爆死没者名簿が納められています。
 埴輪の家型の慰霊碑は昭和27年(1952)8月6日に除幕されました。石室には23万7千人以上の原爆死没者の名簿が納められ、毎年増え続けています。正面には「安らかに眠って下さい過ちは繰り返しませぬから」と刻まれています。



広島平和記念資料館(原爆資料館)
ひろしまへいわきねんしりょうかん(げんばくしりょうかん)
広島県広島市中区中島町1−2
Tel 082-241-4004


 広島平和記念資料館は平和記念公園敷地内にあり、昭和20年(1945)に広島に投下された原子爆弾による被害を示す資料を展示しています。原爆資料館とも平和資料館とも呼ばれています。
 昭和30年(1955)丹下健三による設計で開館しました。西側の本館と、東側の東館からなり、観覧は東館から入り本館から出るようになっています。旧制広島高校のOBである丹下は原爆空襲で両親を失いました。焦土となった広島で復興都市計画立案、世界平和記念聖堂コンペ、平和記念資料館コンペと関わっていきました。
 東館1階、2階では被爆までの広島、戦争・原爆と市民、3階では廃虚の広島、投下された原子爆弾をテーマに展示しています。本館では破壊された街、熱線による被害、原子爆弾の原理、爆風による被害、被害を物語る展示物 高熱火災による被害、原爆の被害 放射線による影響 、救援活動などを説明展示しています。
 平成10年(1998)に公共建築百選、翌年には広島ピースセンター(広島平和記念資料館および平和記念公園)として日本の近代建築20選に選ばれました。平成18年(2006)には、西館が、世界平和記念聖堂とともに、第二次世界大戦後の建築物としては初めて国の重要文化財に指定されました。



広島城
ひろしまじょう
広島県広島市中区基町21−1
Tel 082-221-7512


 広島城は太田川のデルタ地帯に築かれた平城で別名「鯉城(りじょう)」と呼ばれています。
 この付近がかつて己斐浦(こいのうら)と呼ばれていたことからついたともいわれています。姫路城、大阪城と並ぶ名城として昭和6年(1931)には国宝にも指定されていたそうです。
  原爆ですべてが破壊され、昭和33年(1958)かつての姿を彷彿させる5層天守閣が忠実に再現されたのです。
 広島城は天正17年(1589)安芸国吉田の郡山城主であった毛利輝元が築城したそうです。
 黒田如水が縄張りをしたこの城は朝鮮出兵の指揮を執るため立ち寄った豊臣秀吉に賞賛されたそうです。
  毛利元就の孫にあたる輝元は関ヶ原の戦いで西軍に味方して敗れたため長門・周防2国に削られて移封させられました。
 福島正則が入封しましたが石垣を修理したことを徳川幕府に咎められ領地が没収されました。
 浅野長晟(ながあきら)が次に入城し、明治まで42万6000石の藩主として浅野家が治めたそうです。
 日清戦争の時はここに大本営がおかれたということです。



広島護国神社
ひろしまごこくじんじゃ
広島県広島市中区基町21−2
Tel 082-221-5590


 「廣島護國神社」は明治元年(1868)戊辰戦争で命を落とした浅野藩士78柱を祀ったのがはじまりです。以前は広島市民球場付近にありましたが、原爆により一瞬にしてすべてが焼失しました。昭和31年(1956)に現在の広島城跡の場所に再建されました。



縮景園
しゅっけいえん
広島県広島市中区上幟町2−11
Tel 082-221-3620


 縮景園は江戸時代、広島城主浅野家の別邸の庭園として作られ「泉水屋敷」と呼ばれました。昭和20年(1945)に原爆を投下され壊滅的な打撃を受け、昭和26年(1951)に復元・開園し、「縮景園」と改称されました。園の名称は、たくさんの景勝を集めて凝縮させた意味がありますが、中国杭州の西湖を模して縮景したとも伝えられています。
 元和6年(1620)、浅野家初代広島藩主・浅野長晟(ながあきら)は茶人としても知られる家老の上田宗箇に別邸の庭園を作庭させました。以後、歴代藩主によって徐々に拡張整備された回遊式庭園です。
 宝暦8年(1758)の大火で庭園は灰燼に帰しました。7代藩主浅野重晟(しげあきら)は、京都から庭師清水七郎右衛門を呼び寄せ、跨虹橋(ここうきょう)の造営など大改修を行いました。
 園の中央に濯纓池(たくえいち)があり、大小の島を浮かべ、周囲に山を築き、渓谷、橋、茶室、四阿(あずまや)などが巧妙に配置されています。梅、桜の名所としても有名です。
 明治時代以降は浅野家の別邸として利用され、「泉邸」と呼ばれていました。大本営が一時広島に移転した際は明治天皇の宿泊所に充てられたそうです。
 昭和15年(1940)浅野家から広島県に寄付され、国の名勝に指定されました。太平洋戦争中、縮景園は空襲時の市民の避難先に指定されていました。原爆被爆直後の園内は多くの被災者であふれました。浅野重晟が二度も築き直させたという跨虹橋は原爆の爆風にも耐えました。



広島県立美術館
ひろしまけんりつびじゅつかん
広島県広島市中区上幟町2ー22
Tel 082-221-6246


 広島県立美術館は旧広島県立美術館と旧広島県立図書館の跡地に建設されました。平成8年(1996)、隣接している名勝縮景園との調和を図り、アメニティ性の高い都市型美術館としてリニューアルオープンしました。総床面積は約2万平方mで西日本最大級の美術館です。
 重要文化財・ 伊万里色絵花卉文輪花鉢、厳島図屏風をはじめ、平山郁夫、靉光(あいみつ)、圓鍔(えんつば)勝三などの広島ゆかりの作品、河井ェ次郎・浜田庄司などの民芸作品、中央アジアの染織・金工を含む「日本とアジアの工芸作品」、サルバドール・ダリ、イサム・ノグチの作品など4500点を超える作品を収蔵展示しています。



ひろしま美術館
ひろしまびじゅつかん
広島県広島市中区基町3−2 中央公園内
Tel 082-223-2530



 ひろしま美術館は、広島市の中央公園内に昭和53年(1978)、広島銀行の創立100周年を記念して誕生しました。原爆ドームをイメージさせるドーム型の建物には平和な美しさへの祈りがこめられています。
 常設展示室は時代順に4つの部屋に分かれ、18世紀後半から20世紀前半のフランス印象派の絵画を中心に展示されています。ゴッホ、ゴーギャン、モネ、ルノワールなど世界的な画家たちの作品が並んでいます。



不動院
ふどういん
広島県広島市東区牛田新町3−4−9
Tel 082-221-6923


 新日山不動院は、真言宗別格本山のお寺です。14世紀中頃に足利尊氏・直義兄弟が南北朝の戦乱で戦死した武将たちの霊を慰めるために、全国60余カ所に建立した安国寺の一つです。不動院は安芸の国に建てられたことから「安芸安国寺」と呼ばれていました。
 安芸国の守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。戦国時代には戦火により伽藍が焼失し、武田氏も滅亡しました。これを再興したのが毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊でした。
 恵瓊は毛利氏の使僧として活躍し、豊臣秀吉からも厚い信任を得て直臣大名にもなっていました。天下人となった秀吉は恵瓊が住持を務める安国寺に寺領として1万1500百石を与えました。この石高寺領は当時の中央社寺に比較して破格でした。
 恵瓊は安国寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭12院などを復興整備し、中央の大社寺にもひけをとらない寺にしました。寺運は隆盛を極めましたが、関が原の合戦で西軍に組したことで、恵瓊は処刑され、 毛利氏も防長2国に国替となりました。
 福島正則が芸備両国49万石の大名として入封し、恵瓊亡きあとの安国寺には、福島正則の祈祷師であった宥珍が入りました。宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本尊とし不動院と改称しました。
 正則の治世は20年足らずで終り、後に浅野氏が広島に入封しました。不動院は浅野家の菩提寺になり歴代藩主の保護を受け明治に至りました。昭和20年(1945)の原子爆弾投下に際しても山麓という地理的条件が幸いして災禍を免れ、金堂は国宝に、楼門、鐘楼堂は国の重要文化財に指定されています。

 不動院の金堂は天井の墨書から天文9年(1540)の建築と判明しています。広島市内に現存する唯一の国宝です。大内義隆が天正年間(1573−1592)、周防山口に建てた禅宗寺院・凌雲寺を安国寺恵瓊が移築し、仏殿にしたと伝えられています。
不動院金堂
 金堂は桁行3間(15.5m)、梁間4間(16.8m)、1重裳階付、入母屋造り、こけら葺きの建物です。現存する中世禅宗様の仏殿としてはわが国最大級で、正面1間通りを吹き放しとした珍しい構造は、大陸的な禅宗様(唐様)の正式の手法と考えられています。
不動院金堂
 不動院の楼門は上層・下層境にも軒の張り出しをつくる「二重門」です。上層の尾椎に「朝鮮木文禄三」の刻銘があり、文禄3年(1594)に文禄の役に従軍した恵瓊が、朝鮮から良材を持ちかえり建立したものと考えられています。
不動院楼門
 楼門は3間1戸、2階2重門、入母屋造り、本瓦葺きです。金堂指定と同年の昭和33年(1958)に国の重要文化財に指定されています。金堂と同じく禅宗様の建物です。中央を通路として、前方の両脇に仁王を安置し、後方は吹放しとしています。上層には十六羅漢像が安置されています。
不動院楼門
 不動院の鐘楼は間斗束(けんとづか)の裏に記された墨書きにより永亨5年(1433)に建立されています。不動院の建物の中でも最も古いものです。細部の造りを見ると、和様の三手先(みてさき)の組物を用いる一方で、すみ木に禅宗様の手法をとり入れるなど、和様、禅宗様を組み合わせた珍しい意匠が見られます。全体としても、各部の均整がうまくとれた、美しい建物です。
不動院鐘楼
 鐘楼は桁行3間、梁間2間、重層袴腰付屋根、入母屋造り、こけら葺きの建物で、昭和27年(1950)に国の重要文化財に指定されています。内部に恵瓊が朝鮮から持ち帰ったという高さ1.6m、直径65cmの朝鮮初期の梵鐘を納めています。四面の天女の文様が美しく蓮華の中に菩薩の座像があり、信相菩薩の銘が刻まれています。これも銅製梵鐘として明治32年(1899)に国の重要文化財に指定されています。
不動院鐘楼
 不動院には豊臣秀吉の遺髪の五輪塔墓や武田刑部の五輪塔墓、福島正則の宝篋院塔、安国寺恵瓊の無縫塔墓などがあります。恵瓊は関ヶ原の戦いでは西軍に付いたため、京都の建仁寺に潜んでるところを捕らえられ、京都六条河原で斬首されました。
不動院福島正則墓



三瀧寺
みたきでら
広島県広島市西区三瀧山411
Tel 082-237-0811


 三瀧寺は三滝山の中腹にある高野山真言宗のお寺です。三滝山は古く茶人の上田宗箇が城下の茶室の借景として松を植えたことから宗箇山とも呼ばれています。三瀧寺は中国33観音の第13番札所や広島新四国88ヶ所霊場第15番札所になっています。
 寺伝によれば三瀧寺は大同4年(809)に空海(弘法大師)によって創建されました。三滝山の谷間にあり、「三滝観音」として古くから親しまれています。苔むした参道には300余りの石仏や歌碑が点在し、深山幽谷の風情があります。四季折々の自然に囲まれ、秋の紅葉はみごとで、広島の名所のひとつになっています。
 境内には水流の異なる「駒ヶ滝」「梵音の滝」「幽明の滝」の3つの滝があり、その水は広島の平和記念式典の献水に使われています。
 境内入口の上に立つ朱塗りの多宝塔は、原爆死没者の慰霊のために昭和26年(1951)にこの三瀧寺に移築された塔です。元は和歌山県の広八幡神社に建立されたもので、県の重要文化財に指定されています。毎年8月6日と秋の多宝塔本尊・阿弥陀如来御開帳法要の時には、慰霊法要が厳修され、幾十万もの犠牲者の菩提が念じられます。
 原爆投下後、三瀧寺は臨時救護所となりました。そのため、原爆死没者の慰霊碑が多く見られます。境内の想親観音堂・鐘楼・稲荷社・三鬼権現堂・鎮守堂は、広島市の被爆建物リストに登録されています。三鬼権現堂には三鬼大権現が祀られています。
 多宝塔内には国の重要文化財に指定されている木造阿弥陀如来坐像が安置されています。元は大阪府河内長野市日野の観音寺に伝来した像で、胎内に仁平4年(1154)の銘があります。また本堂に安置されている木造阿弥陀如来坐像は広島市の重要有形文化財に指定されています。



宮島
みやじま
広島県廿日市市宮島町1-1
 南北に細長い島内には最高峰の弥山(みせん)があります。山頂の霊火堂には空海の修業以来1600年灯り続ける「きえずの火」があります。
 日本三景の一つで平清盛ゆかりの厳島神社は世界文化遺産に指定されています。



厳島神社
いつくしまじんじゃ
広島県廿日市市宮島町1−1
Tel 0829-44-2020


  宮島のシンボル、重要文化財にも指定されている朱塗りの大鳥居です。高さ約16m、支柱の周囲は約10mあります。
大鳥居
 楠の四脚造の鳥居は海中に自重で立っています。本社拝殿から200m先の海中にあり、干潮時は歩いて渡れます。この鳥居は明治8年に建てられたものだそうです。
 6世紀末の創建で、平清盛の時には、平家一族の拝するところとなり、仁安3年(1168)頃に今日のような社殿が造営されたようです。平家一門の権勢が増大するにつれ、厳島神社の名声も高まり、多くの貴族も崇拝し、社運はますます盛大になりました。
 本殿は桁行正面8間、背面9間、梁間4間、一重両流れ造りで国宝に指定されています。現在の建物は元亀2年(1571)毛利元就によって改築されたものです。拝殿には幣殿で本殿と結ばれています。拝殿、幣殿も国宝です。
 屋根に神社の定番とも言える千木と鰹木を持たず、寝殿造りの様式である桧皮葺の屋根に瓦を積んだ化粧棟のスタイルを取り入れているところが大きな特徴です。
  祓殿は拝殿の前方に続く建物です。桁行正面6間、梁間3間、一重の入母屋造で背面は拝殿の屋根に接続しています。これも国宝に指定されています。
 祓殿の正面前方に167坪の平舞台が付いています。この中央に天文15年(1546)に造営された高舞台があり、ここで舞楽が演じられます。
  厳島神社は平家滅亡後も、源氏一門、足利氏らに厚遇されました。社殿は、承元元年(1207)と貞応2年(1223)に火災にあいましたが修復されました。
 能舞台は国の重要文化財です。桁行1間、梁間1間、一重切妻造り、妻正面、桧皮葺の能舞台は、海上に建っているため、通常能舞台の床下に置かれている共鳴させるための甕がなく、床は響きをよくするため一枚の板のようになっています。
 足拍子のたびに大きく共鳴して響きます。また、潮の満ち引きによっても響きの音色が変わるといいます。全国で唯一の海に浮かぶ能舞台なのです。平成3年(1991)の台風で倒壊しましたが3年後に同じ古材を可能な限り使って再建されました。
能舞台
 鎌倉時代から戦国時代にかけて政情が不安定になると、厳島神社は衰退し、荒廃しました。弘治元年(1555)毛利元就が厳島の合戦で勝利を収めて社殿を支配下に置き崇敬したことから社運はふたたび上昇し、豊臣秀吉も、九州遠征のさいに立ち寄るほどでした。
五重塔
 厳島神社本社本殿の西側の長橋際に建つ摂社大国神社本殿です。元亀2年(1571)に改築されていて大国主命を祀っています。桁行3間、梁間4間、一重、切妻造で国の重要文化財に指定されています。
摂社大国神社本殿
 本社本殿の東側の摂社客神社本殿です。社殿は本社と同じく拝殿、幣殿、祓殿で構成されています。すべて国宝に指定されています。
摂社客神社本殿
 回廊も東西2本有り国宝の指定を受けています。一重、切妻造で幅は4mあります。床板の間にすき間があるのは高潮で床板に圧力がかからないようにするためのものです。



豊国神社(千畳閣)
ほうこくじんじゃ(せんじょうかく)
広島県廿日市市宮島町1-1
Tel 0829-44-2020(厳島神社)


 千畳閣は厳島神社の中にあります。天正15年(1587)豊臣秀吉が戦争で亡くなった人への供養として毎月一度千部経を読誦する大経堂です。
 宮島では最も大きな建物で、畳857枚分の広さがあることから千畳閣と呼ばれています。秀吉が死んだことにより工事は中止され未完のままの大建築です。
 明治の神仏分離令により仏像は大願寺に移され、秀吉を祀る豊国神社となっています。国指定の重要文化財です。



大聖院
だいしょういん
広島県廿日市市宮島町210
Tel 0829-44-0111


 大聖院は多喜山水精寺大聖院といい、弥山の麓にある真言宗御室派の大本山です。宮島で最古の歴史を持つお寺て゛天下統一を果たした豊臣秀吉がこの大聖院で細川幽斎らを招いて盛大な歌会を催しました。
 大聖院は、明治の神仏分離令が出るまでは十二の坊の末寺をもっていて、厳島神社の別当職として祭祀を司ってきた宮島の総本坊でもあったのです。
  本堂は勅願堂(ちょくがんどう)とも呼ばれています。鳥羽天皇勅願道場として創建されたことにより、この名がつけられたそうです。そのようないきさつで鳥羽天皇の第五皇子である覚性法親王が門跡を務めた京都・仁和寺や歴代皇室との結びつきが深いお寺です。
 本堂には豊臣秀吉が朝鮮出兵の折、海上安全を祈願して奉納した波切不動明王が祀られています。
  観音堂は大聖院の中でで最も大きな建物です。もとは厳島神社の御本地仏で行基菩薩の作と伝えられる十一面観世音菩薩が祀られています。



林家住宅
はやしけじゅうたく
広島県廿日市市宮島町滝町235



 厳島神社には棚守(たなもり)・上卿(しょうけい)・祝師(ものもうし)という宮島三家があります。林家は代々上卿職を継ぐ家で、土地の人は、林家住宅のことを上卿屋敷と呼んでいます。上卿は、朝廷から遣わされる奉幣使の代参を役目とする神職だそうです。


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