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日本の旅
日本の旅          香川・高松

與田寺
よだじ
香川県東かがわ市中筋466
Tel 0879−25−4726


 醫王山(いおうざん)與田寺は真言宗善通寺派の古刹です。さぬき七福神の一つ(寿老人)でもあり、四国八十八箇所の総奥の院にもなっています。
 天平11年(739)、行基が醫王山薬王寺薬師院の号で法相宗の寺院として創建されたそうです。後に弘法大師により真言宗に改められたということです。神宮寺と寺号も変わりました。
 嵯峨天皇の時代に勅願寺となり、応長元年(1311)には国内談議所の―つに定められました。中興の時代は後小松天皇より虚空蔵院の院号を下賜されて、1000を越す末寺を有する讃岐国屈指の大寺院でした。
 安土桃山時代に豊臣秀吉の長曾我部氏攻めの兵火を受けて堂塔伽藍の大半を焼失しました。江戸時代に入り高松藩初代藩主・松平頼重の力で復興され、明治時代になってから、神宮寺から與田寺と改められたそうです。



志度寺
しどじ
香川県さぬき市志度1102
Tel 087-894-0028


 補陀洛山( ふだらくざん )志度寺は、香川県さぬき市志度にある真言宗御室派末寺です。四国八十八箇所霊場の第86番目の札所です。
 志度寺は志度湾のほとりに建ち本尊に十一面観音を祀っています。日本3大名門の1つの仁王門と本堂はともに国の重要文化財に指定されています。
 境内にある曲水式庭園は細川勝元が寄贈したものです。昭和21年(1946)の南海地震で被害をうけました。昭和37年(1962)に重森三玲による枯山水「無染庭(むぜんてい)」が造られ復元されています。
 志度寺の起源は推古天皇33年(625)といわれています。観音菩薩の化身といわれる仏師が漂流して来た霊木で十一面観音像を刻み、お堂を建てたのが始まりだそうです。
 天武天皇10年(681)には藤原不比等が堂宇を増築し、「志度(死度)道場」として名づけたそうです。「志度の海辺は極楽浄土へ続く」という信仰でした。持統天皇76年(693)には藤原房前が行基とともに堂宇を建立したと伝えられています。
 室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行い繁栄しましたが、そののち戦乱により寺院は荒廃したそうです。
 藤原氏末裔といわれる生駒氏らによる支援をうけ、寛文10年(1671)、高松藩主松平頼重に本堂や仁王門などの寄進をうけ再興したそうです。
 海女だった妻が、不比等の3個の宝珠を竜神から取り戻した物語は、浄瑠璃「花上野誉の石碑」や謡曲になっています。妻の命と引き換えに3個の宝珠を手にした不比等は約束を守って一子房前を跡継ぎにしました。その子が母を供養するために建立したのが志度寺です。境内には「海女の墓」が五輪塔群として現存しています。

 平賀源内は志度寺の塔頭寺院である自性院常楽寺の檀家でした。境内には源内の墓所があります。
 源内は、江戸時代の蘭学者、医者、作家、発明家、画家(蘭画家)です。高松藩の士分から浪人へ身を落とし長崎に留学しました。江戸では林家に学び、エレキテル、陶器寒暖計など100種の発明をしました。西洋画、戯作など諸分野に天才ぶりを発揮しました。



長尾寺
ながおじ
香川県さぬき市長尾西653
Tel 0879-52-2041


 補陀洛山( ふだらくざん )長尾寺は天台宗比叡山延暦寺派のお寺で四国八十八箇所霊場の第87番目の札所になっています。
 門前に東西一対の古い経憧(亡き人の 供養のため、写経を埋めた上に建てた石柱)が建っています。弘安6年(1283)と9年(1286)の銘があります。2基とも国の重要文化財に指定されています。元冦に出征した兵の鎮魂のために建てられたそうです。
 天平11年(739)、行基菩薩がこの地を訪れて霊感を得られ聖観音菩薩像を刻み、堂宇を建立して安置し たのが始まりといわれます。 観音院長尾寺と称し法相宗に属していたそうです。
 吉野山で義経と別れた静御前は各地を流転しました。文治4年(1188)、母である磯野禅尼とこの長尾寺にたどり着き得度したそうです。
 当時、長尾寺は女人禁制であったため近くの庵に義経形見の黄金の薬師如来像を安置して念仏三昧で生涯を終えたという悲話が残っています。



屋島寺
やしまじ
香川県高松市屋島東町1808
Tel 087-841-9418


 南面山(なんめんざん)屋島寺は屋島山頂にあり、源平合戦にもゆかりが深い四国八十八箇所霊場の84番目の札所になっています。
 屋島は標高282mの溶岩台地で頂上部が平坦でその形が屋根に似ていることと、元は島で あったところから屋島と名づけられたといいます。

 寿永4年(1185)都を追われた平家と、源義経率いる源氏が戦った屋島の古戦場としても知られています。那須与一が平氏の軍船に掲げられた扇の的を見事に射落としました。
 源頼朝は弟範頼に3万騎を進軍させました。しかし兵糧不足と平家の水軍に悩まされます。義経は奇襲で平家の本拠地であった屋島を攻略します。平家の総大将の平宗盛は安徳天皇とともに海から逃亡したのでした。
 屋島寺は屋島山頂に建てられています。天平勝宝6年(754)に唐から来日した鑑真が屋島の山上に瑞光が見えたので 屋島の北嶺に登り開基したそうです。のちに弟子の恵雲師が堂宇を建て初代の住職となったそうです。
 弘仁6年(815)、この地を訪れた弘法大師は、瑳峨天皇の勅願により北嶺にあった伽藍を南嶺に移しました。十一面観音菩薩像を刻んで本尊と したそうです。
 元和4年(1618)に建立された本堂は入母屋造りで本瓦葺きです。鎌倉時代の前身堂の部材を用いていて、国の重要文化財に指定されています。
 貞応2年(1223)の銘がある梵鐘は鎌倉時代に作られ、これも国の重要文化財に指定されています。別名「平家供養の鐘」とも呼ばれています。



平家物語歴史館
へいけものがたりれきしかん
香川県高松市朝日町3丁目6ー38
Tel 087-823-8400


 平家一門の栄華と滅亡、野心家平清盛の生涯を綴った平家物語をろう人形310体で立体歴史絵巻として再現しています。
 祇園精舎の鐘の声が・・・とロボット琵琶法師が語りだします。



高松城跡
たかまつじょうせき
香川県高松市玉藻町2ー1
Tel 087-851-1521


 高松城は大分県中津市の中津城、愛媛県今治市の今治城とともに日本三大水城に数え上げられています。高松港、琴電高松築港駅のすぐ隣にあります。月見櫓、艮(うしとら)櫓、水手(みずのて)御門、渡櫓が国の重要文化財に指定されています。
 別名玉藻城(たまもじょう)とも呼ばれ、この一帯は玉藻公園になっています。玉藻の由来は万葉集で柿本人麿が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠みました。そしてこのあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことでつけられたようです。
 天正15年(1587)、生駒親正は豊臣秀吉から讃岐17万6千石を与えられ、国主として入府しました。天正16年(1588)から現在の場所に築城を着手しました。
 縄張りは、当時築城の名人であった黒田孝高(如水)だったそうです。数年後、瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだ水城が完成し、高松城と名付けられました。
 生駒氏時代の天守閣は、天守台に3層4階の天守閣でした。生駒氏の後に城主となった高松松平藩初代藩主・松平頼重が、寛文9年(1669)に3層5階の天守に改築したそうです。
 この天守は、南蛮造りと呼ばれる珍しい天守だったそうです。明治17年(1884)に腐朽がひどくなったため取り壊されてしまいました。
 生駒家は4代目・高俊の時に生駒騒動があり4代54年で改易になってしまいました。寛永19年(1642)、松平頼重が常陸下館5万石から入封したそうです。
 この松平頼重は水戸光圀の実の兄になる人だそうです。頼重以降、松平氏が11代228年間居城し明治を迎えました。



栗林公園
りつりんこうえん
香川県高松市栗林町1ー20ー16
Tel 087-833-7411


 栗林公園は国の特別名勝に指定されている大名庭園です。紫雲山の東麓に75万平方mの広大な敷地を有し、特別名勝に指定されている庭園の中で最大の広さを誇っています。
 ここには江戸初期の頃、この地の豪族であった佐藤道益の別邸が建てられていたそうです。寛永2年(1625)頃、讃岐領主生駒高俊によって、別荘が建てられ、南湖一帯が造営されたようです。
 寛永19年(1642)、入封した松平頼重により手を加えて整備されました。以後松平氏5代の藩主らにより約100年がかりで完成したものです。
 5代目頼恭の時代に南庭を江戸城の吹上御苑にならって造庭されました。小堀遠州の手による回遊式庭園が出来上がったのでした。
 紫雲山を借景として6つの池と13の築山を巧妙に配しています。南庭と違い北庭は近代的に整備された準洋式の庭園です。
 明治時代には新政府の管理下におかれました。明治8年(1875)に県立公園になり一般に公開されました。昭和28年(1953)に国の特別名勝に指定されています。
 野趣に富んだ西湖の景色を支えている石壁は赤壁とも呼ばれています。中国の揚子江左岸にある景勝地で三国志演義にも登場します。 
石壁
  この水流の北に添うて旧藩主の茶亭があったそうです。5代の頼恭の頃、扇屋原に移されたものでした。この茶亭に使われた「おりつくばい」がその後も残存し、現在もこの水流の中にあります。
おりつくばい
  江戸時代にあった日暮亭を明治31年(1898)に再建しました。平成11年(1999)復元整備工事により往時の姿が蘇りました。
日暮亭
 鳳尾塢(ほびう)とはソテツが植えられた築山です。薩摩藩主の島津氏より送られた琉球産のソテツです。300年を経て香川県の天然記念物に指定されています。
鳳尾塢
 掬月亭(きくげつてい)は庭園の中での中心になる建物です。歴代藩主が大茶屋と呼んで最も愛用した建物だったようです。延亨2年(1745)松平5代藩主頼恭が中国の詩人干良史の詩の一句「水を掬すれば月手にあり」から掬月亭と名付けたそうです。
掬月亭
 この松の木は根上り五葉松と呼ばれています。天保4年(1833)徳川11代将軍家斉より松平9代藩主頼恕(よりひろ)が参勤交代の時に拝領した盆栽を植えたものだそうです。 
根上り五葉松
 松平初代藩主頼重のお庭焼として正保4年(1647)に京都から招いた把太理兵衛重利(きたりへいしげとも)が焼いた九重塔で古理兵衛九重塔(こりへいくじゅうとう)と呼ばれています。
古理兵衛九重塔



冠纓神社
かんえいじんじゃ
香川県高松市香南町由佐1413
Tel 087-879-2604


 冠纓(かんえい)神社は「冠尾(かむろ)神社」ともいわれ、地元の人からは「かむろ八幡宮」と親しみを込めて呼ばれる香南町の氏神です。平安時代前期に智証大師円珍により創建されたといわれています。
 貞観3年(861)、讃岐巡礼中の円珍が井原庄に着いた時、鳩峰大自在王菩薩が現われて井原庄を鎮護するといったそうです。このため円珍はこの地の里人の力を借りて、宝蔵寺を建てました。
 細川頼之が厚く保護、尊崇し、京都の石清水八幡宮の冠纓を奉納しました。このことから冠尾(かむりお、又はかむろ)八幡宮と呼ばれるようになり、後に冠纓神社となったそうです。
 冠纓神社は細川氏による信仰・保護を受けて繁栄しました。細川氏が衰えた後も由佐氏がこれを引き継ぎました。後に讃岐国を支配した生駒親正や松平頼重も社領の寄進をするなど庇護しました。
 安倍晴明が神主をしていたという伝承もあり、境内には安倍晴明神社、陰陽道資料館などもあります。秋季例祭で披露される夫婦大獅子舞で使用される2頭の大獅子は県指定有形民俗文化財で、日本一の大きさともいわれています。
 境内には樹齢800年以上の楠を始め100種以上に及ぶ植物が群生しており、「冠纓神社社叢」として昭和52年(1977年)、香川県自然記念物に指定されています。
 境内には願い石・叶い石があります。しめ縄をした卵型の石をなぜながら「願」をかけると必ず願いが叶うといわれています。
願い石・叶い石



さぬき空港公園
さぬきくうこうこうえん
香川県高松市香南町由佐2953ー1
 Tel :087-879-8510


 さぬき空港公園は、高松空港周辺地域の整備の一環として造られました。昭和61年(1986)から空港周辺に整備を始め、68ヘクタールの面積を誇る広大な公園です。すべて完成すると100ヘクタールになる予定だそうです。
 「人との出会い・空とのふれあい・自然との調和」をテーマに、平成2年(1990)年に記念広場が開園し、平成19年(2007)4月までにカントリー、ポートヒル、アドベンチャー、スカイの4つのゾーンがオープンしています。
 カントリーゾーンには催し物広場と水辺の広場があります。ポートヒルゾーンには記念広場・イベント広場・彫刻広場・グラススキー場・冒険の森が含まれます。スカイゾーンは高松空港の西側にあり、アドベンチャーゾーンは一番新しいゾーンです。 



最明寺
さいみょうじ
香川県高松市塩江町安原下第1号274
Tel 087-897-0118


 最明寺は、四国を代表するハギの名所です。境内には現在、宮城野萩、紅萩、姫萩、駒止萩、通天萩など10数種類、約200株のハギがあり、「萩寺」と呼ばれています。9月上旬には、境内に紅白の萩の小花が咲き乱れます。
 文武天皇の大宝元年(701)に行基が、薬師如来を刻み、伽藍を建立し本尊として安置しました。そして「如意輪寺」と称しました。
 その後、嵯峨天皇の弘仁12年(821)に弘法大師が如意輪寺に立ち寄り、千手観音を刻んで安置したそうです。
 文応元年(1260)、鎌倉幕府第5代執権だった最明寺入道・北条時頼が諸国行脚でこの地に来訪しました。一国一跡の伽藍を建立し、鎌倉御祈願所と定め、寺名を如意輪寺から「福寿山来迎院最明寺」と改めました。
 最明寺は、その後、天正13年(1585)に兵火に遭って焼失しました。明治年間にも再び火災に遭っています。



根香寺
ねごろじ
香川県高松市中山町1506
Tel 087-881-3329


 青峰山(あおみねざん)根香寺は高松市の西、坂出市と国分寺町にまたがる五色台という山の中にあります。四国八十八箇所霊所第82番札所になっています。
 五色台とは五色の峰にちなむもので、中国古代の陰陽五行説や真言密教の教説から名付けられたそうです。5つの峰々に金剛界曼荼羅の五智如来を感得したのです。
 ここ五色台を密教相応の地として、五智如来の色別によって、青峰、赤峰、黄峰、黒峰、白峰と名付けました。 その青峰に花蔵院を創建し、五大明王を祀ったのでした。
 天長9年(832)、智証大師が不思議な香りを放つ霊木で千手観世音菩薩を刻みました。そしてこれを本尊として千手院を創建したのです。両大師が創建した2院を総称して、根香寺となったそうです。
 寺の名に「香」の字を入れたのは香りを放つ霊木からです。香木の芳香が川に流れ香気を漂わせたことから県の名である香川となったともいわれています。
 根香寺は後白河法皇の勅願所となり繁栄しました。しかし度重なる兵火で衰退してしまいました。それを再興したのは高松松平初代藩主・松平頼重でした。
 仁王門を通り抜け石段を昇りつめたところに本堂があります。本尊である木造千手観音立像は国の重要文化財に指定されています。
 総身漆箔の立像は165cmで桜材の一木造りです。頭上に十一面をいただいています。智証大師が刻んだ本尊が火災で焼失したため末寺の吉水寺から大師が刻んだ本尊を移したものといわれています。藤原時代初期の秘仏で、御開帳は33年に1度行われるそうです。



国分寺(讃岐)
こくぶんじ(さぬき)
香川県高松市国分寺町国分2065
Tel 087-874-8840


 白牛山国分寺は古義真言宗御室派のお寺です。御室派とは、京都御室仁和寺を総本山といただく宗派です。国分寺は別格本山でもあるそうです。また国分寺は四国八十八箇所80番目の札所にもなっています。
 この国分寺も聖武天皇が天平13年(741)に発した国分寺建立の詔により、日本各地に建立された国分寺の1つです。
 寺伝では行基が十一面千手観世音菩薩を本尊として開基したとされています。
 この国分寺と、讃岐国分寺跡は国の特別史跡に指定されています。
 発掘調査の結果、奈良時代の讃岐国分寺は、現在の国分寺や東隣にある宝林寺を含む、南北240m、東西220mの境内地を有していたそうです。
 この国分寺の本堂は奈良時代の講堂跡に建っていて、今の本堂はこの礎石を再利用しているそうです。
 木造の千手観音立像は行基が造り、空海が手直ししたといわれています。実際には平安時代後期の作のようです。
 本堂は鎌倉時代後期の建築て゛国の重要文化財に指定されています。弘仁年間(810-824)に弘法大師が本堂などを修復しましたが、天正年間(1573-1592)に戦火にあい本堂と鐘楼のほかはすべて焼失したそうです。
 梵鐘は創建当時からのもので奈良時代のものです。これも国の重要文化財に指定されています。慶長14年(1609)、高松藩主の生駒一正が、この鐘を気に入り、城内に持ち込みました。ところか゛鐘は少しもならず城内外に悪いことが重なりました。そのため1ヶ月足らずで返されたそうです。。



瀬戸大橋
せとおおはし
香川県坂出市番の州町〜倉敷市児島


本州と四国を結ぶ初の架け橋。全長9368mの世界最大の道路・鉄道併用橋で、6つの橋と4つの高架橋で構成されています。吊り橋、斜張橋、トラス橋といろいろな橋があります。
 瀬戸大橋記念公園は、世紀の大規模プロジェクトであり、人々の長年の夢だった瀬戸大橋の架橋を記念して整備された面積10.2ヘクタールのメモリアル・パークです。
 広々とした園内には、「水の回廊」、「浜栗林」、「遍路ギャラリー」、瀬戸大橋に関する展示コーナーや大迫力のブリッジシアターを擁する「瀬戸大橋記念館」、国内最大級の木製ドームの「マリンドーム」など、多彩な施設などが点在し、憩いとふれあいのスポットとして、親しまれています。
 瀬戸大橋タワーは円盤形の展望室(定員100名)が回転しながら上昇し、132mの高さのタワー展望台から瀬戸大橋を眼下に見下ろせます。



白峰寺
しろみねじ
香川県坂出市青海町2635
Tel 087-747-0305


 綾松山(りょうしょうざん)白峰寺は雨月物語にも登場する四国八十八箇所霊所81番札所です。讃岐に流されて亡くなった崇徳上皇(1119-1164)を葬った白峰御陵と御廟所「頓証寺殿」があります。
 高松と坂出の境に標高500mの台地、五色台があります。白峰はその峰の一つです。五色台とは五色の峰にちなむもので、中国古代の陰陽五行説や真言密教の教説から名付けられたそうです。
 弘仁6年(815)に弘法大師が白峯山に登り、如意宝珠を埋め、閼伽井(井戸)を掘って、堂を建立したそうです。
 貞観2年(860)に、智証大師円珍がこの山上に霊光を見ました。白髪の老翁に導かれ白峯鎮守の神託を受けたのです。瀬戸内の海上に異香を放つ霊木で千手観世音像を刻み、本尊として安置しました。
 保元の乱により讃岐に配流された崇徳上皇は坂出市内にあった雲井御所に3年、木丸殿(このまるでん)に6年間幽閉されました。そして長寛2年(1164)に崩御されました。
 御遺詔によって白峰寺の稚児が嶽で荼毘に付し白峯御陵に葬られたました。以後たびたび都に変事が続くので、朝廷はここ白峯寺に上皇の霊をまつる御廟所として頓証寺殿(とんしょうじでん)を建立しました。
 現在の金堂は松平頼儀が寛政4年(1792)に寄進したものです。阿弥陀堂は松平頼重が修理しました。本堂は慶長4年(1599)に生駒一正が再建したものです。
 「頓証寺」の扁額は今は宝物館に納められていますが、後小松天皇の宸筆下賜されたもので国宝に指定されています。

  表参道に国の重要文化財に指定された2基の十三重石塔があります。この石塔は源頼朝が崇徳天皇の菩提を弔うために建立したと伝えられています。
十三重石塔
 東西両塔は形はよく似ていますが材質工法は異なっているようです。東塔には弘安元年(1278)、西塔には元亨4年(1324)と刻まれています。鎌倉時代中期の石塔です。
十三重石塔



神谷神社
かんだにじんじゃ
香川県坂出市神谷町621
Tel 0877-47-0770


 白峰への参拝口である高屋から南へ2kmほどのところに神谷神社があります。本殿は、高さ1mの石垣の上に建てられた三間社です。
 春日社風の朱塗りの門と回廊の内部に本殿があります。本殿は国宝です。延喜式に式内社と記載されている神社なのです。
 建保7年(1219)の建立で、桧皮葺です。前面の屋根がうしろの屋根より長く伸びている流れ造りです。現存する三間社流れ造りでは最古のものです。
  また、社宝には2体の随神立像があるそうです。約125cmのケヤキの寄木造りで、阿、吽一対になっていて、筋肉・衣紋の細部にわたって巧みに刻まれているそうです。



郷照寺
ごうしょうじ
香川県綾歌郡宇多津町1435
Tel 0877-49-0710


 宇多津港を見渡す高台に仏光山( ぶっこうざん )郷照寺があります。八十八箇所四国霊場で78番目の札所になっています。厄除けの寺としても有名です。
 奈良時代の神亀2年(725)に行基によって開かれ、仏光山道場寺と名づけられました。本尊の阿弥陀如来は行基が造ったものといわれています。後の時代に郷照寺と改名されました。
 弘仁6年(815)にはこの地を弘法大師が訪れて一刀三礼で自作の尊像を刻み厄除けの誓願をしたそうです。ここは密教の霊地として栄えたのです。
 正応元年(1288)、一遍上人が全国行脚の折に逗留し浄土の教えを広めました。法門による光明を大衆に与える踊り念仏の修行道場ともなったようです。
 室町時代には守護大名の細川頼之の庇護のもとに子院七か寺を有し栄えました。戦国時代に長曽我部の兵火により堂塔伽藍が焼失してしまいました。
 寛文4年(1664)に、高松藩主松平頼重により再興されました。その時の住持の浄阿上人と徳川家遺相との関係で時宗に属しました。
 文化2年(1805)には松平藩主が病気平癒を祈願し、それが成就したことで大書院を建立し、4石の保護料を寄進したそうです。このことで病気平癒の折祷寺として松平家代々の庇護を受けました。藩により本堂や客殿「観海楼」なども建築され手厚く保護されたそうです。
 郷照寺の境内は左に納経所、右手に本堂、本堂の奥に大師堂があります。大師堂の左の地下には万体観音堂があり、3万体の観音像が堂内に並んでいます。
 郷照寺には樹齢400年以上といわれるホルト(モガシ)の巨木があります。文禄3年(1594)に日本の信者が中国から苗木を持ち帰ったものといわれています。



ゴールドタワー
ごーるどたわー
香川県綾歌郡宇多津町浜1番丁8ー1
Tel 0877-49-7070


 金色のハーフミラーを使った高さ158mの展望タワーです。夜になるとライトアップされます。  
 金色に輝く建物内のシースルーエレベーターであっという間に展望室に到着します。    地上127mの展望室からは瀬戸大橋や瀬戸内海の絶景が楽しめます。



世界のガラス館
せかいのがらすかん
香川県綾歌郡宇多津町浜一番丁9
Tel 0877-49-3100


 世界のガラス館はスイスの山小屋風の大きな建物です。昭和63年(1988)、ガラス製品を取り扱う専門施設としてオープンしました。ベネチアングラスやボヘミアングラスなど世界40カ国以上のガラス製品が展示、販売されています。
 オリジナルオルゴール作りやエッチンググラスの製作体験教室など、楽しい教室やイベントも評判です。



宇多津臨海公園
うたづりんかいこうえん
香川県綾歌郡宇多津町浜一番丁4
Tel 0877-49-0860


 海岸に面した宇多津臨海公園は、瀬戸内海の美しい海岸線や瀬戸大橋を一望することができます。ゴールドタワー、世界のガラス館などどともに、人気スポットになっています。



丸亀城
まるがめじょう
香川県丸亀市一番丁
Tel 0877-24-8816 丸亀市文化観光課


 市街地中央にある海抜66mの亀山に丸亀城はそびえ立っています。外濠、内濠、頂上の天主閣につながる平山城です。別名亀山城ともよばれています。
 室町時代初期、管領、細川頼之の重臣の奈良元安が亀山に砦を築いたそうです。慶長2年(1597)、豊臣秀吉の時代、生駒親正が讃岐17万石を与えられ高松城を本城とし、この亀山に支城を築きました。
 慶長7年(1602)、6年の歳月を要してほぼ現在の城郭が完成されたそうです。生駒親正(1526−1603)は美濃出身で織田、豊臣に仕えました。
 賎ヶ岳、小牧山の戦などで軍功を挙げ、近江高島田、伊勢神戸、三田城主、赤穂城主を経て讃岐高松の城主となったのです。
 寛永17年(1640)、生駒騒動とよばれるお家騒動のため出羽国矢島(現在の秋田県由利本荘市)に転封となります。翌年、山崎家治が肥後国富岡(現在の熊本県天草郡苓北町)より5万石で入り丸亀藩ができました。
 万治元年(1658)、山崎氏は3代で跡継ぎができなかったため改易となってしまいます。播磨国龍野(現在の兵庫県たつの市)より京極高和が6万石で入封し、明治時代まで続いたそうです。天主閣は日本に現存する12の木造天主の1つで国の重要文化財です。
 内堀から積み重ねられた石垣は、高さ60mを超え日本一といわれます。扇の勾配と呼ばれ、美しいゆるい曲線を描いています。城跡の全域は国の史跡に指定されていて亀山公園となっています。



太助灯篭
たすけとうろう
香川県丸亀市福島町


 太助灯篭は金毘羅詣での客で賑わった丸亀港のシンボルです。参拝客は琴平までの道中、この太助灯籠を目印に丸亀港に入港したそうです。 最高額の80両を寄付した「塩原太助」の名をとって名付けられたようですが初代ではなく出来上がったころは3代目だったようです。
 近くにもう2基の灯籠が建てられたそうですが、第二次大戦で金属供出され、今はありません。太助灯籠は、昭和53年(1978)に昔どおりに復元されています。
 太助灯籠のすぐ横に明治天皇上陸の碑が建てられています。明治5年(1872)、参議西郷隆盛らを従えて鎮台、分営設置の視察の行幸だったそうです。
明治天皇上陸碑



うちわの港ミュージアム
うちわのみなとみゅーじあむ
香川県丸亀市港町307−15
Tel 0877-24-7055


 丸亀うちわは江戸初期に金毘羅参りの土産物として朱赤に丸金印の渋うちわを売り出したことに始まります。京極藩が武士の内職に奨励したこともあり、丸亀の代表的な地場産業として発展を続けました。
 現在のうちわの生産量は年間約8000万本以上で、全国シェアの90%を誇っています。平成9年(1997)に国の伝統的工芸品に指定されました。うちわの港ミュージアムには丸亀うちわの歴史を伝えるうちわや模型人形、文献などを展示し、伝統の技と工程を披露しています。



中津万象園
なかずばんしょうえん
香川県丸亀市中津町25ー1
Tel 0877-23-6326


 中津万象園は京極藩2代目の藩主京極高豊によって築かれた池泉回遊式庭園です。日本庭園の中に丸亀美術館が併設されています。
 約1万5千坪にもおよぶ敷地内には、琵琶湖にならった八景池があり近江八景を模した「帆、雁、雪、雨、鐘、春嵐、月、夕映」と名付けた8つの島々が浮かんでいます。琵琶湖のある近江国は京極家の出身地でした。

 名松百選に選ばれた名園で林立する松が見事です。朱塗りの邀月橋から見る眺めは格別です。
 丸亀美術館の方にはミレー、ルソーなどフランスバルビゾン派の絵やコロー、クールベなどの巨匠の絵などが展示されています。古代ペルシャ陶器を展示した陶器館などもあります。



道隆寺
どうりゅうじ
香川県仲多度郡多度津町北鴨1ー5ー42
Tel 0877-32-3576


 道隆寺の寺伝によると、開基は和銅5年(712)だといわれます。金倉寺を開いた和気道善の弟、和気道隆(わけみちたか)はこの一帯の荘園の領主でした。
 この荘園の大桑園で、夜ごと怪光を放つ桑の大木があったため道隆はその桑で薬師如来の小像を刻みました。そしてお堂を建てて安置したそうです。
 道隆の子朝祐(ちょうゆう)は、唐から帰国した弘法大師に師事しました。大師は自ら薬師如来像を刻み、道隆の薬師像をその胎内におさめ本尊としたのです。このことから腹ごもり薬師、二体薬師とも呼ばれ、50年に1度開帳される秘仏となっています。
 大師の弟の法光大師や甥の智証大師など名僧が住職を務め伽藍も造営されたのですが、兵火により灰燼に帰しました。本堂は天正14年(1586)、30世住職により再建されました。



多度津駅
たどつえき
香川県仲多度郡多度津町栄町3


 多度津駅の駅案内パネルには「四国鉄道と少林寺拳法発祥の駅」と記されています。駅前には列車の大きな車輪が飾られています。

 明治22年(1899)、讃岐鉄道の駅として、丸亀駅から琴平駅間の開通時に開業しました。この時、多度津駅は大阪方面からの各航路に接続させるため、港に近接されるように設置され、スイッチバック(折り返し)構造になっていました。



海岸寺
かいがんじ
香川県仲多度郡多度津町西白方997
Tel 0877-33-3333


 経納山海岸寺は真言宗醍醐派のお寺です。宝亀5年(774)、弘法大師の母である玉依御前がこの地に産屋を設けて大師を出産したといわれています。
 一般的には大師生誕の地は善通寺が通説になっていて論争にもなりました。
  山門には琴ヶ浜、大豪をモデルにした金剛力士ならぬ相撲取りが立っています。

 門を入ったところに安政3年(1856)再建の本坊本堂があります。
道路を隔てた西側に奥の院があります。そこには産屋跡や奥の院大師堂があります。



金蔵寺
こんぞうじ
香川県善通寺市金蔵寺町1160
Tel 0877-62-0845


 鶏足山(けいそくざん)金倉寺は善通寺市にある天台宗寺門派の古刹です。弘法大師の甥にあたる円珍こと智証大師が生まれた寺として有名です。四国八十八ヶ所霊場の第76番札所になっています。
 寺を開いたのは智証大師の祖父の和気道善という人でした。宝亀5年(774)、道善寺という名前で創建したのでした。

 唐から帰朝した円珍が、堂宇を整備して、延長6年(928)、地名の金倉郷にちなんで今の名前になったそうです。
 当時の金倉寺の領域は北は海に近く、三方は山に面していたそうです。迦葉尊者が入定したインドの鶏足山の大洞に似ていたので鶏足山と号すようになったそうです。
 永正年間(1504-1520)、天文年間(1532-1554)の兵火に遭い、伽羅や寺宝の多くは焼失してしまいました。
 寛永19年(1642)、高松藩主になった松平頼重が、この寺の荒廃を憂い、大檀主となって伽羅を構営し寺領を寄附し、一郡一ヶ寺の祈祷所として再建したのでした。
 明治時代に、日露戦争で有名な乃木希典が師団長として善通寺に赴任した時、3年間金倉寺の客殿に滞在したそうです。
 妻が訪ねて来ましたが、女人禁制のため会えずに帰ったそうです。本堂の前には「妻返しの松」と呼ばれる松があります。乃木将軍ゆかりの品々も展示されています。
妻返しの松



善通寺
ぜんつうじ
香川県善通寺市善通寺町3ー3ー1
Tel 0877-62-0111


 善通寺は、香川県善通寺市にある寺院で真言宗善通寺派総本山です。四国八十八箇所霊場の第75番札所になっています。
 五岳山善通寺の本尊は薬師如来です。高野山金剛峯寺、京都東寺とならび3大霊跡のひとつに数えられています。
 善通寺は、弘法大師の父の佐伯善通から土地の寄進を受け、大同2年(807)に佐伯一族の氏寺として、弘法大師(空海)の師であった恵果が住んでいた長安の青龍寺を模して建立したといわれています。
 佐伯家は代々讃岐の国造(くにのみやつこ)を務めていたそうです。弘法大師の母は伊予親王の侍講、阿刀大足卿の妹の玉寄御前です。  
 善通寺は、父の名前からつけられ、山号の五岳山は、香色山(こうじきざん)・筆山(ひつざん)・我拝師山(がはいしざん)・中山(ちゅうざん)・火上山(かじょうざん)の5つの山の麓にあることから命名されたそうです。
 中世には足利氏、近世には高松松平家や丸亀京極家の庇護を受けて大いに栄えました。また、明治に入ると付近に陸軍基地が置かれ、軍都として発展しました。現在も陸上自衛隊善通寺駐屯地があります。
 広大な敷地を持つ善通寺は、道路を挟んで東院と西院に分かれています。東院には南大門(正門)・東門(赤門)・西の中門と 金堂・五重塔・鐘楼などがあり、西院には御影堂を中心に親鸞上人堂、 宝物殿、戦没者慰霊塔 などがあります。
 南大門を入ると、荘厳な五重塔があります。大師が創建した塔は兵火に焼かれ、後の文化元年(1804)に再建されましたが、これも焼失してしました。現在の塔は明治時代になって再建されたものです。三間半四方、高さ45.5mの総檜造りの塔です。
 御影堂(大師堂)は弘法大師誕生所として奥の院とされています。 大師の母である玉寄御前の住まいがあった所で、弘法大師はここで生まれたそうです。この下は戒壇巡りをすることができ、真っ暗な通路を南無大師遍照金剛と唱えながら進むと罪が消えるそうです。
 弘法大師が唐から持ちかえったといわれる国宝の金銅錫杖頭(こんどう しゃくじょうとう)をはじめ数多くの、文化財、寺宝など数千点を有しているということです。



曼荼羅寺
まんだらじ
香川県善通寺市吉原町1380ー1
Tel 0877-63-0072


 曼荼羅寺は、真言宗善通寺派の寺院で本尊は大日如来、四国八十八箇所霊場の第72番札所になっています。
 弘法大師の出身氏族である佐伯氏の氏寺として推古4年(596)に創建されたそうです。当初は世坂寺というお寺の名前だったそうです。
 弘法大師が唐より帰国後、金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置し、大日如来を本尊として再興しました。母である玉依御前の菩提寺とし、山号は我拝師山、寺号は延命院曼荼羅寺と改名したそうです。

 弘法大師が植えたといわれる「不老松」がありましたが、平成14年(2002)に枯れてしまったそうです。西行法師ゆかりの水茎の岡にちなむ枯山水の庭園も知られています。



金刀比羅宮
ことひらぐう
香川県仲多度郡琴平町892
Tel 0877−75−2121


 金刀比羅宮は古くから「さぬきのこんぴらさん」の愛称で親しまれてきた庶民の神様です。海の神様として知られる大物主命 (おおものぬしのみこと)と崇徳上皇を奉っています。
 本宮まで785段、奥社まで1368段の石段があります。山上からは瀬戸内海の多くの島々の美しい景色が眺められます。
 この金刀比羅宮は昔は松尾寺という真言宗のお寺でした。金毘羅様は守護神として祀っていました。 明治初期の廃仏毀釈の中、国粋主義者たちが各地の寺の仏像を壊したり捨てたりするという事件が相次ぎました。
 この時、寺の破壊を恐れた松尾寺の別当松尾宥暁(ゆうぎょう)は寺自体は廃絶させた上で祭神を仏教とは無関係の大物主神と崇徳天皇に変更したのです。この奇策により金刀比羅宮として生き残りました。
 金比羅様の参拝に関しては、犬の首に旅費と初穂料をくくりつけて、自分の代理とし、その犬をリレーしていく、ということが行われました。これを代参犬といいますが、金刀比羅宮の参道の階段の途中には、そういったたくさんの犬の代表として「代参犬ゴン」の像が立っています。
  階段を上っていくと立派な金刀比羅宮の書院の建物があります。表書院には円山応挙、奥書院には狩野直信の襖絵があります。円山応挙は江戸時代には「写生派」として知られていました。
表書院
 表書院には全部で7つの部屋があり、うち5つが応挙の筆によります。「瀑布図」は一番格式の高い「上段の間」の障壁画で最高傑作の一つといわれています。
 本宮少し手前に旭宮があります。総ケヤキ造りの豪壮華麗な社殿で、天保8年(1873)の建立です。鳥獣、花卉などの彫刻が施され天保芸術の枠を集めた建物です。正式には金刀比羅宮旭社(あさひのやしろ)です。
  金刀比羅宮の祭神は大物主神です。後に崇徳天皇を合祀しました。全檜造りの社殿は大社関棟造です。明治11年(1878)に改築されています。
金刀比羅宮本宮
 金毘羅様は元々ワニの神とされ、水に関連が深い上に、象頭山が瀬戸内海を航行する船の目印になったことからいつしか船の守り神とされるようになりました。
 特にこの付近を根拠地とした塩飽水軍が信奉し、「流し樽」という風習も生まれました。 沖を通る船が金毘羅様にお参りするのに「奉納金比羅大権現」と書いた幟を立て、船の名前と航海安全を祈る祈祷文、そして初穂料を入れた樽を海に流すことです。
  一刀彫は金刀比羅宮にある旭社の建立の際、全国から集められた腕ききの宮大工たちが、昼休みにつくった寿老人・弁財天・福禄寿・布袋・大黒天・恵比寿・毘沙門天の七福神を建築現場に遊びに来た子供たちや、参詣の旅人に進呈したのがはじまりだそうです。
一刀彫



本山寺
もとやまじ
香川県三豊市豊中町本山甲1445
Tel 0875- 62-2007


 本山寺には大同2年(807)、平城天皇の勅命を受けた弘法大師が一夜のうちに建立したという伝説が残っています。
 四国霊場第70番目の札所で寺領2千石を有する四国有数の大寺院であったそうです。

 国の重要文化財になっている仁王門は鎌倉時代のもので、折衷様式のどっしりした八脚門です。久安3年(1147)建立されています。
 現在の本堂は正応4年(1291)、佐々木氏信の寄進を受けて、正安2年(1300)心導上人の代に建て替えられたといわれています。

 大正13年(1924)特別保護建造物に指定され、昭和27年(1952)、鎌倉建築として復元工事を行いました。昭和30年(1955)国宝に指定されています。
 また御本尊の馬頭観世音菩薩、脇士の阿弥陀如来と薬師如来はその厨子三基とともに国宝に指定されています。
 本堂にある阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれているそうです。右手に残る傷は長曽我部の兵から本堂を守ったといわれています。
 住職が兵に切られた時、本堂の内陣にあった阿弥陀如来の右手の肘から血が流れ出て、驚き恐れおののいた兵たちは退散し本堂だけが焼失を免れたということです。



薬王寺
やくおうじ
香川県三豊市山本町河内3665
Tel 0875-63-2581


 薬王寺は明治までは菅生神社の別当寺だった真言宗のお寺だったそうです。

 薬王寺には250種550株のボタンがありピンク、赤、白、紫、黒、黄色など色鮮やかに咲く名所です。別名ボタン寺とも呼ばれています。
 花の開花の頃催される「ぼたんまつり」には、県内外から多くの人が訪れるそうです。



大興寺
だいこうじ
香川県三豊市山本町辻小松尾4209
Tel 0875-63-2341


 大興寺は、真言宗善通寺派の寺院です。
 「小松尾寺」として親しまれ、四国88箇所霊場第67番札所として多くのお遍路さんがお参りしています。
 天平14年(742)に東大寺の末寺として建立され、嵯峨天皇の勅願によって弘仁13年(822)、弘法大師空海が建立したのが始まりとされています。

 天正年間(1573-1592)に長宗我部元親の兵火によって本堂以外を焼失しました。現在の大興寺は慶長年間(1596-1615)に再興されたそうです。
 寺宝には文永4年(1267)、平安期3蹟の一人藤原朝臣経朝が奉納した「大興寺」の扁額があります。この扁額は県最古のものだということです。

 山門(仁王門)の木造金剛力士立像は大きく、高さは2体とも3.14mもあるそうです。檜材寄せ木造で彩色されています。
 弘法大師がこの寺での修行中に植えられたと伝えられるクスやカヤも、県の自然記念物・保存木に指定されています。




観音寺
かんのんじ
香川県観音寺市八幡町1−2−7
Tel 0875-25-3871

 
 観音寺は、琴弾山の東側山麓にある真言宗の寺です。同じ琴弾山にある琴弾八幡宮の別当、神宮寺宝光院として日証上人により創建されました。
 大同年間に弘法大師が第7世となり、興福寺にならって中金堂、東金堂、西金堂の制をとり、七伽藍を造営したそうです。中金堂には聖観音像を彫刻されて安置し、神宮寺を観音寺と改め、四国第69番霊場としたのです。

 仁王門の右の柱には「四国 六十八 六十九番 霊場」、左の柱には「七宝山 神恵院 観音寺」と書かれています。四国霊場では珍しく、一山に68番の神恵院と69番の観音寺の2つの寺があるのです。
  明治の神仏分離令で八幡宮の別当寺神恵院は独立しました。観音寺の地を借り現在地に移転し再建されので、同じ境内に2つの札所が生まれたのです。

 仁王門を入った右側に本堂があります。室町時代初期の建築といわれています。文明4年(1472)から大永5年(1525)の間に大修復したようです。昭和34年(1959)にも解体修理して修復しました。国の重要文化財に指定されています。
 本堂には、本尊である聖観世音菩薩と薬師如来、阿弥陀如来座像を安置しています。
 弘法大師は神恵院に来錫した時、神功皇后は観世音の生まれかわりとして聖観世音菩薩の尊像を刻み、山中に47基の仏塔を建て7種の珍宝を埋めて地鎮したそうです。これにちなみ山号を七宝山としたそうです。



神恵院
じんねいん
香川県観音寺市八幡町1−2−7
Tel 0875-25-3871


 神恵院(じんねいん)と観音寺は、琴弾山の東側山麓の同じ境内にあります。琴弾八幡宮の別当、神宮寺として創建されたのでした。
 神恵院の本堂は、平成14年(2002)にコンクリート打ちっぱなしの名前にそぐわない現代的なお堂になりました。
 神功皇后は、聖観音菩薩像を刻んで、同じ琴弾山にある観音寺に安置しました。大同年間(806-810)、弘法大師がここに来て、琴弾八幡宮の阿弥陀如来像を描いて納め、神恵院と名付け四国霊場に定めたのです。
 慶応4年(1868)の神仏分離令により、琴弾八幡宮の本地仏であった阿弥陀如来を神恵院に移し第68番札所にしたのでした。



琴弾八幡宮
ことひきはちまんぐう
香川県観音寺市八幡町1ー1ー1
Tel 0875-25-3828


 琴弾八幡宮は大宝3年(703)に創建された古刹です。山で修行中の日証上人が八幡大菩薩の乗った船が近くに漂着したのを見つけました。そして里人とともに船を山頂に運び祀ったということです。
 そのとき、船の中から琴の音がしていたことから「琴弾」の名がついています。そして琴を神宝として祀ったという事です。
 琴弾八幡宮は源氏の崇敬を受けました。源頼義は前九年の役に使いを立てて願文を納め、その子の義家は社殿を造営、神馬を奉納しました。義経は屋島の戦いの後に平家追討を祈願して馬と鳥居を奉納し、頼朝は1千貫文の土地を寄進したそうです。
 大同2年(807)、四国を行脚中の空海が琴弾八幡宮に参拝し、阿弥陀如来の像を描いて本尊として、琴弾山神恵院(じんねいん)として第68番札所に定めました。
 ところが明治の神仏分離により、本尊の阿弥陀如来は観音寺にあった西金堂に移され、神恵院として独立したため68番札所としたため四国霊場唯一の珍しい1寺2霊場となっています。



琴弾公園
ことひきこうえん
観音寺市有明町


 琴弾公園は明治30年(1897)に県立公園として開設され、昭和11年(1936)には国の名勝に指定されました。日本の桜名所100選にも選ばれています。約500本ものソメイヨシノが咲き競います。
 琴弾公園がある琴弾山々頂から有明浜や、白砂に「寛永通宝」が描かれています。東西122m、南北97mの巨大な砂絵です。寛永10年(1633)、藩主・生駒高俊を歓迎するため一夜で作ったのが始めだそうです。




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