×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

直線上に配置

更新日:  



あなたは

番目の訪問者です
(ogino作成共通カウント)



旅と歴史ホームページ

OGIさんのHP

信州上田ホームページ

信州長野ホームページ

真田一族のホームページ

Mr.ogino旅ホームページ

上田の旅と歴史HP

信州の旅HP

日本の旅

世界の旅HP



日本の旅
日本の旅          高知

豊楽寺薬師堂
ぶらくじやくしどう
高知県長岡郡大豊町東寺内314
Tel 0887-73-0029


 豊楽寺は「柴折薬師」の名で知られる古刹です。愛知県の鳳来寺の峰薬師、福島県の常福寺の嶽楽師とともに日本3大薬師の1つに数えられています。
 豊楽寺は神亀元年(724)、僧行基によって創設されたといわれています。本堂は仁平元年(1151)の創建です。薬師堂内に安置している仏像の銘からわかったそうです。
 薬師堂は現存する四国最古の建物で、高知県では唯一の国宝に指定されています。阿弥陀如来像、薬師如来像、釈迦如来像も、国の重要文化財に指定されています。



国分寺
こくぶんじ
高知県南国市国分546
Tel 088-862-0055


 土佐の国分寺です。聖武天皇の時代に各地に建てられた国分寺の一つで、摩尼山(まにざん)国分寺といい、四国八十八箇所霊場の第28番目の札所です。
 天平13年(741)、行基が聖武天皇の命により開山したそうです。天皇自らが金光明最勝王経を書写して納め、天下泰平、五穀豊穣、万民豊楽を願う勅願所となりました。後に弘法大師が中興し、真言宗の寺として栄えました。
 柿茸き、寄棟造りの金堂(本堂)は永禄元年(1558)に長宗我部元親が再建したものだといわれています。国の重要文化財に指定されています。本堂には大小2体の木造の薬師如来立像が安置されています。これも同様に重要文化財です。
 明暦元年(1655年)に、土佐藩主の山内忠義が寄贈したといわれる仁王門は豪壮な2層造りの門です。上層に創建当時のものといわれる梵鐘が架けられていました。平安時代前期のものとされ、これも国の重要文化財に指定されています。
 土左日記を書いた紀貫之が国司としてこの場所に赴任していました。官人としての地位はそれほど高くなかったといわれています。
 貫之は、「古今和歌集」の選者の一人でもありました。仮名文字による「土佐日記」を著し、その後の日記文学などに大きな影響を与えました。



禅師峰寺
ぜんじぶじ
高知県南国市十市3084
Tel 088-865-8430


 「峰寺(みねんでら)」として親しまれている禅師峰寺は真言宗豊山派のお寺です。四国八十八ヶ所霊場の第32番目の札所になっています。 
 神亀年間(724-729)に行基が建立したといわれています。印度の補陀洛山に似て、八葉の蓮台に似ているところから八葉山とし、行基菩薩が開いた峰の寺の意味で禅師峰寺と名付けられたそうです。
 この地で求聞持法の修行をしていた弘法大師は、船の安全を願って自刻の十一面観世音を安置したそうです。
 海上交通の安全に霊験があるとされ船魂観音(ふなだまかんのん)と呼ばれて敬われています。土佐藩主が参勤交代で江戸に向かう時、必ずお参りしたそうです。

 参道には巨岩が並び、正面に本堂、左手に大師堂があります。本堂の前には「木枯らしに岩吹き劣る杉間かな」と芭蕉の句碑があります。
 仁王門の木造金剛力士像は鎌倉時代の仏師定朝の作です。檜材の寄せ木造りで国の重要文化財に指定されています。



室戸岬
むろとみさき
高知県室戸市室戸岬町6939


 室戸岬は高知県室戸市南端の太平洋に面する岬です。斑レイ岩などからなる標高100〜120mに達する数段の海岸段丘です。激しい海食により奇岩奇勝を形成しています。昭和3年(1928)に国の名勝に指定されています。また室戸阿南海岸国定公園にも指定されています。
中岡慎太郎の銅像
 灯台から海岸に下りる途中に中岡慎太郎の像があります。坂本龍馬と行動をともにし、龍馬と一緒に京都の龍馬の下宿「近江屋」で刺客に襲われ重傷を負い、数日後絶命しました。 久坂玄瑞と共に佐久間象山を訪問し、板垣退助に西郷隆盛を紹介したり、京都白川邸に「陸援隊」を編成して隊長にもなりました。出身地が室戸岬に近いそうです。
 展望景観の優れた室戸岬半島部では見どころが多く、室戸岬は日本八景にもなっており景勝地としてよく知られています。
 また、岬一帯で見られる暖温帯林と海浜植生は学術的価値が極めて高く、アコウやウバメガシ、アオギリ、ナチシダなどは国の天然記念物にも指定されています。
 岬山頂部には四国霊場24番札所の最御崎寺や室戸岬灯台があり歴史的景観が豊かです。
 変化に富んだ海岸は海食、隆起、沈降作用によってできたものです。
 室戸岬灯台のレンズの大きさは直径2m60cmで日本一で、明治32年(1899)に点灯しました。当時の工費は約2万円だったそうです。白色回転は10秒間に1せん光します。ここからの眺望は素晴らしく雄大絶景です。
 雄大な太平洋を望む景勝地室戸岬は四国の東南端にあります。太平洋に向かってV字形に鋭く突き出た約48kmの海岸線は、室戸阿南海岸国定公園に指定されています。断崖絶壁の岩や、大波が打ち寄せる海岸から眺める太平洋の姿は感動的です。



旧関川家住宅民家資料館
きゅうせきかわけじゅうたくみんかしりょうかん
高知県高知市一宮1819
Tel 088-845-8529


 高知市旧関川家住宅民家は江戸時代の末頃の郷士の住宅です。平地豪農民家で昭和49年(1974)に国指定の重要文化財に指定されています。
 関川家は織田信長の二子信雄の家臣で徳川を名乗っていました。徳川幕府と同姓のため遠慮して関川姓に改名したそうです。寛政2年(1790)郷士となりました。関川家住宅は分家筋になります。



龍乗院
りゅうじょういん
高知県高知市比島町2−10−3
Tel 088-875-4097


 一乗山大中寺龍乗院は天台宗のお寺です。開基は山内一豊で、日讃永厳を開山として安土桃山時代の慶長5年(1600)に創建されました。
 板垣退助の生家にあったとされる門は龍乗院の山門になっています。絹本着色普賢延命像(けんぽんちゃくしょくふげんえんみょうぞう)は縦106cm、横56cmの鎌倉時代の作品で国の重要文化財に指定されています。
 初代住職の日讃永厳は164歳まで生きたといわれています。元和元年(1615)、大坂夏の陣の和平交渉に軍師として参列していたそうです。
 寛文11年(1671)に土佐藩主山内豊昌により現在地に移されたそうです。明治元年(1868)に国清寺と静林寺を統合して現在に至っています。



高知城
こうちじょう
高知県高知市丸ノ内1
Tel 088-824-5701


 高知城は南北朝時代、南朝方に付いた豪族・大高坂松王丸が、今の高知城がある大高坂山に城を構え、大高坂山城と称したのが最初です。
 その後、興国2年(1341)、松王丸は北朝方の細川禅定らと戦い敗れ落城し、廃城となりました。
  長宗我部元親が四国を制覇後、豊臣秀吉に敗れ土佐国一国のみを安堵されました。
 元親は九州遠征の後の、天正15年(1587)に前の大高坂山城の地に城を築きました。そして天正19年(1591)、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築き、本拠を浦戸に移しました。
 慶長6年(1601)関ヶ原の戦いで西軍についた元親の子の盛親は改易されました。
 新しく入封したのは、山内一豊でした。尾張黒田城主、山内盛豊の3男として誕生し、秀吉に仕え、目覚ましい働きを重ねてきました。近江、長浜2万石の城主となった後、小田原攻めの武功により掛川5万石の城主になっていました。
 土佐国一国24万2千石を与えられた山内一豊は掛川城から入封し、浦戸城に入りました。
 慶長6年(1601)、一豊は城下町としての浦戸は狭いため、百々綱家(どどつないえ)を総奉行に任じて、大高坂山城跡に本丸の造営を始めました。
 慶長8年(1603)、本丸と二の丸が完成し、河中山城(こうちやまじょう)と改名されました。慶長15年(1610)、2代藩主忠義の時、高智山城と改名されました。度重なる水害で、河中山城の名を忌み嫌い、竹林寺の空鏡によって名付けられたそうです。
 翌、慶長16年(1611)に三の丸が竣工し、ここに高知城の縄張りが完成しました。 その後、高知城と呼ばれるようになり、城下も高知と呼ばれるようになりました。
 享保12年(1727)に高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外のほとんどが焼失しました。享保14年(1729)、8代豊敷は、深尾帯刀(ふかおたてわき)を普請奉行に任じ、城の再建に着手しました。
 寛延元年(1748)、天守ほか櫓・門などが完成しました。そして宝暦3年(1753)に高知城の再建が完了しました。現在見られる建造物の大半は、この時に再建されたものです。前の高知城を忠実に再現したといわれており、高欄を設けるなど復古型の形式をとっています。
 天守閣をはじめ、詰門や東西の多聞櫓、黒鉄門など15棟の建物が重要文化財に指定されています。天守閣のある本丸は、全国で唯一天守と御殿が両方残っています。
 明治6年(1873)の廃城令に伴い、高知公園となりました。この際に、現存残されている建造物以外の建造物は破却されてしまいました。
 昭和9年(1934)に天守など15棟の建造物が国宝に指定され、昭和25年(1950)それらは国の重要文化財に再指定されました。昭和34年(1959)に国の史跡に指定され、平成18年(2006)日本100名城に選定されました。



善楽寺
ぜんらくじ
高知県高知市一宮2501
Tel 088-846-4141


 百々山(どどざん)善楽寺は真言宗豊山派のお寺です。大同年間の頃に弘法大師が土佐一の宮の別当寺として善楽寺を建立しました。
 明治の神仏分離によって 善楽寺は土佐神社から離れ、続く 廃仏毀釈に依って廃寺となりました。
 その際に本尊は土佐の国分寺に、仁王像は 最御崎寺に預けられたそうです。その後、高知市の安楽寺に本尊が移され安楽寺が善楽寺のあとを継ぎ四国八十八箇所霊場30番目の札所となりました。
 昭和5年(1930)善楽寺が復興したため2つのお寺が30番札所となってしまいました。双方とも札所を主張したため巡礼にまわる人々は混乱しました。
 平成6年(1994)に善楽寺が30番目の札所になり、安楽寺は奥の院として正式に定められました。



土佐神社
とさじんじゃ
高知県高知市一宮しなね2ー16ー1
Tel 088-845-1096


 土佐神社は土佐の一ノ宮で四国でも有数の大社です。創建は5世紀ごろといわれています。広大な境内をもち、国の重要文化財に指定されている神光門とよばれる楼門から長い参道が続きます。
 正面奥に樹齢数百年の杉や檜の古木がそそり立っています。本殿、拝殿、幣殿、鼓楼と立派な建物が並んでいます。これらも国の重要文化財に指定されています。
 境内に「礫石」と呼ばれる自然石があります。古代にはこれを磐座として祭祀が行われていたと推察されています。
 延喜式神名帳では「土佐国土佐郡 都佐坐神社」と記載されて大社に列しています。海賊平定を祈願し成就した功績で天慶3年(935)に最高位となる正一位になったそうです。
 鎌倉時代、神仏習合の時代に神宮寺、善楽寺などと一宮を形成し、土佐高賀茂大社(高賀茂明神)と称されました。明治4年(1871)に土佐神社に改称し、国幣中社に列格しました。
 永禄6年(1563)、兵火により社殿が焼失してしまいました。元亀元年(1570)長曽我部元親が四国平定を祈願して本殿、拝殿、幣殿などを再建しました。
 幣殿と拝殿を合して十字型に造り、左右に翼拝殿を設けた「入りとんぼ造り」と称される独特の様式となっています。
 江戸時代の藩主山内氏も土佐高賀茂大社を保護し、土佐藩の祈願所としました。昭和21年(1946)、官国弊社の制度が廃止され、神社本庁所轄の別表神社となり現在に至っています。



山内神社
やまうちじんじゃ
高知県高知市鷹匠町2ー4ー65
Tel 088-872-3333


 文化3年(1806)、土佐藩10代藩主山内豊策は初代藩主の一豊とその夫人の見性院(千代)、2代藩主忠義を祀るために高知城内に藤並神社を造営しました。
 明治4年(1871)、廃藩置県が行なわれました。土佐藩の最後の藩主だった山内豊範は、維新後最初の知事となりました。祖先の霊を祀るために高知城追手門近くにあった藤並神社の場所に社殿を造営しました。
 昭和7年(1932)、15代豊信・16代豊範の幕末維新における功績を称えるため神社を新たに造ることになりました。 両公を除く歴代藩主の霊を藤並神社にうつし、昭和9年(1934)に別格官幣社山内神社が創建されました。
 太平洋戦争の戦火により、藤並神社、山内神社ともに社殿を焼失してしまいました。昭和45年(1970)に社殿を再建し、藤並神社と合併し山内神社になりました。その際藩祖である山内一豊と見性院(千代)、歴代藩主を合祀しました。



旧山内家下屋敷長屋
きゅうやまうちけしもやしきながや
高知県高知市鷹匠町1ー3ー35


 高知の鷹匠公園付近に、南邸と呼ばれた土佐藩15代藩主の山内豊信(とよしげ)のちの容堂(ようどう)の下屋敷がありました。豊信の生家の山内南家は分家で、連枝五家の中では一番下の家柄でした。豊信は6歳から22歳までここで過ごしたそうです。
 13代藩主の山内豊熈が急死したあと、弟の豊惇が14代藩主につきましたが12日後に急死してしまいました。豊惇は病気のため隠居したという形をとり山内家の断絶を免れました。嘉永元年(1848)、豊信が藩主に就任したのでした。
 豊信は、元治元年(1866)、南邸の東に隣接する武家屋敷七軒を召し上げて長屋を建てさせます。この時建てられた長屋が、旧山内家下屋敷長屋です。国の重要文化財に指定されています。
 別邸下屋敷は明治時代は拡張され山内家本邸として使用されていましたが戦後に売却されて、跡地はホテル三翠園になっています。現在はこの長屋のほか門と物見亭が現存しています。慶応3年(1867)、物見亭で西郷隆盛と山内容堂が会見しました。



五台山公園
ごだいさんこうえん
高知県高知市五台山


  高知市街の東、浦戸湾に面した五台山と呼ばれる海抜139mの山があります。中国の聖山である五台山に似ているところから、僧行基が名付けたそうです。
 昭和34年(1959)にペギー葉山が歌って大ヒットした「南国土佐を後にして」の祈念碑が建てられています。

 ライオン宰相と呼ばれた高知市出身の濱口雄幸の像もあります。昭和4年(1929)に内閣総理大臣となりましたが軍縮を推し進めたため軍部の恨みを買い、昭和5年(1930)に東京駅で狙撃されてしまいました。

 一帯は県立都市公園になっていて、高知県立牧野植物園、牧野富太郎記念館のほか、四国霊場第31番礼所の竹林寺などがあります。

 五台山には高知県立牧野植物園があります。日本で数少ない総合植物園です。園内には四季折々約3000種の植物が植えられています。
 牧野富太郎博士は文久2年(1862)、土佐国佐川村(高知県高岡郡佐川町)出身で、日本の植物学の父といわれています。命名は2500種以上(新種1000、新変種1500)、自らの新種発見も600種余りと膨大なものです。まさに近代植物分類学の権威です。



竹林寺
ちくりんじ
高知県高知市五台山3577
Tel 088-882-3085


 五台山(ごだいさん)竹林寺は五台山の頂上付近ある真言宗智山派のお寺です。聖武天皇は文殊菩薩に会う夢を見ました。僧の行基に五台山に似た山を捜し出させ、寺の建立を命じました。
 行基は神亀元年(724)に土佐の大島という場所を見つけ五台山と名付け、ここに寺を建立し、栴檀の木に文殊菩薩を刻んで安置したそうです。これが竹林寺のはじまりです。
 その後弘法大師が訪れ、堂宇を修復し、五台山の5つの峰を密教法具の五鈷杵に見立てて密教霊場としたと伝えられています。
 本堂の文殊堂に祀 られている本尊の文殊菩薩は国の重要文化財に指定されています。秘仏になっていて50年に1度だけ御開帳の時姿を現わします。
 本堂の文殊堂も国の重要文化財に指定されています。文明年間の建立で、単層、入母屋造り、柿葦です。境内には高知県で唯一の32mの五重塔が昭和55年(1980)に再建されています。夢窓国師の庭園や宝物舘もあります。
 よさこい節で「土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た」と歌われている坊さんは竹林寺の僧侶、純信です。おうまとの悲恋物語は有名です。
 安政の時代、五台山竹林寺の37歳の僧純信は、おうまという17歳の娘に恋をしました。そしてはりまや橋の小間物屋で、お馬のためにかんざしを買いました。
 このことが噂になり、二人は讃岐の国へと駆け落ちを図ります。関所破りは重罪でした。連れ戻され三日間さらし者にされ、純信は国外追放、おうまも追放になったということです。



武市半平太 旧宅と墓
たけちはんぺいたきゅうたくとはか
高知県高知市仁井田吹井3021


 武市半平太は武市瑞山ともいい土佐勤皇党の盟主として仰がれた人物です。
 薩摩や長州、水戸の尊皇攘夷派の志士と交流を深め、文久元年(1861)に土佐勤王党を結成し活躍しました。
 武市半平太の旧宅と墓は竹林寺から禅師峰寺に向かう遍路道の近くにあります。旧宅も墓も国史跡に指定されています。
 土佐藩の一藩勤王を説きましたが、吉田東洋に書生論として退けられました。文久2年(1862)東洋を暗殺して土佐藩を勤王化することに成功しました。 
 公武合体派の第15代藩主山内容堂により投獄され、慶応元年(1865)、切腹を命ぜられ、潔く他界したということです。享年37歳の若さでした。



安楽寺
あんらくじ
高知県高知市洞ヶ島町5ー3


 妙色山安楽寺は真言宗豊山派のお寺です。同じ高知市内にある善楽寺が明治の神仏分離、廃仏毀釈によって廃寺となったあと本尊が安楽寺に移されたため四国八十八箇所霊場30番目の札所を継ぐことになりました。
  昭和5年(1930)善楽寺が復興したため2つのお寺が30番札所となってしまいました。双方とも札所を主張したため巡礼にまわる人々は混乱しました。平成6年(1994)に善楽寺が30番目の札所になり、安楽寺は奥の院として正式に定められました。



川上不動尊(宗安寺)
かわかみふどうそん(そうあんじ)
高知県高知市宗安寺598
Tel 088-844-3003


 宗安寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。鏡川の上流の横矢から洪水で流れ出した不動明王像がここの大藤の根元に流れ着いたそうです。このことから川上不動尊と呼ばれています。
 「国宝 川上不動尊」という石碑が建てられています。今は国宝ではありませんが木造不動明王坐像、木造持国天立像、木造増長天立像が国の重要文化財に指定されています。
 四国三十六不動尊第17番札所の宗安寺は長宗我部氏に滅ぼされた本山一族の菩提寺で大きな寺だったそうです。



朝倉神社
あさくらじんじゃ
高知県高知市朝倉丙2100
Tel 088-844-1360


 朝倉神社は土佐国二宮とされ、祭神も土佐国一宮である土佐神社祭神の后とする説もあります。地元では木の丸様とも呼ばれているそうです。
 建立時期ははっきりしませんが土佐の延喜式内社21社の1つに入っており、日本書紀にも記述された古社です。
 中世から武家の篤い崇敬を受け、土佐藩主山内氏からは代々、社領寄進や造営を受けています。
 本殿は明暦3年(1657)に2代土佐藩主山内忠義が再建させたものといわれています。国の重要文化財に指定されています。
 桁行3間、梁間2間で屋根は切妻造りでこけら葺きです。正面に1間の向拝を設け、その前面に唐破風をつけています。軒まわりの彩色、柱などの黒漆、金具彫刻は優美で鮮やかです。



桂浜公園
かつらはまこうえん
高知県高知市浦戸


 竜頭岬には、右腕を懐に、革靴を履いた土佐の英雄・坂本龍馬像が建ち、太平洋の彼方を見据えています。この銅像は近くで見るとかなり大きいものです。昭和3年(1928)に建立されました。
 この像は本山白雲の傑作で戦時中も供出しなかったそうです。坂本龍馬は、幕末の海援隊長をつとめ、薩長同盟、大政奉還を実現させました。明治の政策の基になった船中八策も提言しました。
 文豪、大町桂山が「みよや見よみな月のみの桂浜、海のおもよりいづる月かげ」と詠み、五色の石で覆われ、白波打ち寄せる美しい浜はまた、月の名所としても有名です。
 北東端には上竜頭岬、南西端には下竜頭岬があり、その間の弓形の砂浜が桂浜です。土佐民謡「よさこい節」にも詠われています。
 長宗我部元親は桂浜北側の丘陵部に浦戸城を築き、一時この地が岡豊城に代わって土佐の中心地になった時期もあったそうです。山内一豊が、慶長8年(1603)に高知城を築いて移ったため浦戸城は廃城となりました。



浦戸城跡
うらどじょうせき
高知県高知市桂浜


 浦戸城跡は鎌倉時代の終わり頃、この地の豪族の城として築かれました。天文年間(1632-1654)、本山梅慶の城砦になり、本山氏滅亡後、土佐を平定した長宗我部元親の家臣横山友隆が城代になりました。
 元親は天正16年(1588)に岡豊城から大高坂城高知城に城を移しましたが、水害が重なったため3年でこの浦戸城に本城を移すことにしました。その後10年間、浦戸城が政治、軍事の中心になりました。関ケ原の合戦後の慶長6年(1601)山内一豊が遠州掛川城から入封します。同8年高知城に移り、浦戸城は廃城になりました。



坂本龍馬記念館
さかもとりょうまきねんかん
高知県高知市浦戸城山830
Tel 088-841-0001


 坂本龍馬記念館は竜馬生誕150年を記念して建築され、平成3年(1991)に開館しました。地下2階から地上2階までのオレンジとブルーの斬新な建物です。
 竜馬直筆のお竜さん宛ての手紙、薩長同盟の裏書、海援隊の規約、寺田屋宛て手紙などが飾られています。竜馬のピストルなども陳列されていました。



雪蹊寺
せっけいじ
高知県高知市長浜857ー3
Tel 088-837-2233


 高福山(こうふくざん)雪蹊寺は薬師如来を本尊とする臨済宗妙心寺派の寺院です。四国八十八箇所霊場の第33番目の札所になっています。
 雪蹊寺は、弘法大師が弘仁6年(815)に開いたとされています。当初は高福寺というお寺でしたが、鎌倉時代に仏師の運慶と長男の湛慶が来山して本尊を刻んで安置したことから「慶雲寺」と改名されたそうです。
 その後、長宗我部元親が慶長4年(1599)に没し、4男の盛親(もりちか)はここを菩提所と定めました。
 元親の法号「雪蹊如三大禅定門」にちなんで寺の名を雪蹊寺としたそうです。天正14年(1586)に豊後の戸次川原(大分市)で島津と戦って戦死した元親の長男信親の供養塔もあります。
 この時の先鋒隊大将だった仙石秀久の稚拙な采配と秀久が真っ先に退却したことで信親軍は孤立化し熾烈な抵抗の末、壮烈な最期を遂げたのは有名な話です。元親は悲しみの余り精神を病んだともいわれています。



長宗我部元親 墓石
ちょうそかべもとちかぼせき
高知県高知市長浜天甫山


 長宗我部元親の墓は長浜天甫寺山の南斜面の森の中にあります。元親は天文8年(1539)、岡豊(おこう)城で国親の長男として誕生しました。永禄3年(1560)の本山氏との「戸ノ本の戦い(現高知市長浜)」が元親の初陣となりました。
 永禄6年(1563)、本山氏を朝倉城から追い、安芸氏、津野氏、一条氏を次々と破り安芸郡東部を平定して土佐を制覇しました。天正13年(1585)には四国を平定しました。豊臣秀吉の四国征討で敗れたものの、土佐一国を安堵されました。
 以後、忠実な秀吉傘下の大名となり羽柴姓まで許されました。秀吉の九州征伐の際に戸次川合戦で長男信親を亡くし失望のあまり精神を病んだといわれています。
 慶長4年(1599)年4月初旬、元親は病気療養のため盛親を伴って上洛し、京都伏見の邸に入りました。豊臣秀頼に謁見した後、5月19日、61歳の生涯を終えました。遺言により天龍寺で火葬し、遺骨は土佐へ送られ、天甫寺山に葬られました。



清瀧寺
きよたきじ
高知県土佐市高岡町清瀧丁568ー1
Tel 088-852-0316


 医王山(いおうざん)清瀧寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は薬師如来です。四国八十八箇所霊場の第35番目の札所になっています。
 境内には高さ12mの厄除けの薬師如来像が建っていて、その像の台座の中で戒壇巡りができるようになっています。本尊の薬師如来立像は国の重要文化財に指定されています。
 養老7年(723)、行基が本尊薬師如来を刻んで寺を開創し、景山密院繹木寺と称したそうです。その後弘法大師が訪れこの地で修行をしました。
 五穀豊穣を祈願して山中で修法を行い、満願の日に金剛杖で岩を突くと清水が湧き出て鏡のような池になったことから醫王山鏡池院清瀧寺と改めたといわれています。
 清瀧寺は江戸時代に火災に遭い焼失しました。慶安4年(1651)に土佐2代藩主の山内忠義により再建されたそうです。明治4年(1871)の廃仏毀釈により廃寺になってしまいましたが、明治13年(1880)に再建されています。



四万十川
しまんとがわ
高知県四万十市山路2494
Tel 0880-36-2227


  四万十川は日本最期の清流と呼ばれています。 四国最長の大河であり、生活の一部です。幹線流路延長 は196km 、流域面積は2270平方kmの一級河川です。 
 古くから「四万十川」と書いて「わたりがわ」とも呼ばれていたそうです。また「四万渡川」と書かれることもあったそうです。
 宝永5年(1708)の土佐物語には「四万十川 わたりがわ」と記されているそうです。平成6年(1994)までは「渡川」といわれていました。そのあとから「四万十川」とされたということですが意外でした。今ではこの川が「日本最後の清流」として、全国的に有名です。
 不入山(1336m)の東斜面に源を発し、主な支流35、支流総数318、四国西南地域を大きく蛇行しながら、落差のない流れとなって、中村市下田で太平洋に注ぎます。
 「まわし打ち」といわれる、10隻以上の舟が2列に並び、上流から順に網を打っていく漁法は四万十独特の漁です。
 河口付近では青のり採取が盛んで、全国屈指の天然海草類の宝庫となっています。採取した青のりは川面ですすぎ天日に干します。


トップ アイコン旅と歴史のホームページへもどる トップ アイコン  日本のページへもどる    


直線上に配置