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日本の旅
日本の旅        島根・津和野

足立美術館
あだちびじゅつかん
島根県安来市古川町320
Tel 0854(28)7111


 足立美術館は昭和45年(1970)、地元安来出身の実業家、足立全康氏によって開館しました。
 横山大観をはじめ竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園、富岡鉄斎、榊原紫峰ら近代日本画壇の巨匠たちの作品1300点を収蔵展示しています。
 特に横山大観のコレクションは世界一で「無我」(1897年) 「紅葉」(1931年)、「雨霽る」(あめはる)(1940年)など130点にも及んでいます。
 また安来出身の人間国宝だった陶芸家「河井寛次郎」、料理人として陶芸家としても名を馳せた「北大路魯山人」の陶芸作品などもあり、武井武雄、林義雄らの童画などの作品も収集されています。
 足立美術館は庭園でも有名です。「枯山水庭」「白砂青松庭」「苔庭」「池庭」など5万坪におよぶ6つの庭園は日本庭園の美が凝縮されています。
 創設者の足立全康が自分の目と足で全国から蒐集した松や石を配しました。専属の庭師や美術館スタッフが、毎日手入れや清掃を行なっていて「庭園もまた一幅の絵画である」という全康の思いが伝わってきます。
 米国の日本庭園専門雑誌スキヤ・リビング/ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニングの日本庭園ランキング(Shiosai Ranking)で初回の2003年ランキングから2008年まで6年連続で庭園日本一に選出されています。
 全国803ヶ所の名所・旧跡を対象に「庭そのものの質の高さ」「建物との調和」「利用者への対応」などを総合的に判断した結果です。なお2位には京都の桂離宮、3位には福井の養浩館庭園が入っています。



松江城(千鳥城)
まつえじょう(ちどりじょう)
島根県松江市殿町1−5
Tel 0852-21-4030


 松江城は慶長16年(1611)堀尾吉晴(ほりおよしはる)によって5年の歳月をかけて築城されました。松江城天守閣は全国に現存する12天守の一つで山陰では唯一の天守閣です
 天守閣の高さは30mで、地下1階を含めて5層6階の独立天守です。桃山様式の天守として築城当時のまま現存しており、国の重要文化財に指定されています。
 白鷺城とよばれる姫路城の白壁に対して、簡素な木造黒塗りの外観で千鳥城ともよばれています。
 天守入口の付櫓をはじめ、各層に設けられた袋狭間や石落し、籠城用の地階の井戸や蔵などに戦国武将としての堀尾吉晴の面影を伺うことができます。
 吉晴は松江城の完成を見ることはできませんでしたが、孫の忠晴があとを引き継ぎました。松江城は石高に比べて贅沢と賞されるほどの広大なものであったようです。。
 堀尾忠晴には正室、側室に嗣子が無く、従兄弟の堀尾宗十郎を養子に立てることを願い出ていましたが認めてもらえないまま、忠晴が亡くなったため堀尾宗家は断絶し、堀尾氏は3代で改易となりました。。
 寛永11年(1634) 京極忠高が若狭国小浜藩より出雲、隠岐両国26万石で入封しました。三の丸の修築を行い、松江城の全容が完成しました。しかし忠高も嗣子ができないまま亡くなり、京極氏は廃絶しました。
 寛永15年(1638)信濃国松本藩より徳川家康の孫に当たる松平直政が18万6千石で入封しました。以後、明治維新まで松平氏がここを治めました。



松江護国神社
まつえごこくじんじゃ
島根県松江市殿町1−15
Tel 0852-21-2454


 松江護国神社は、昭和13年(1938)松江招魂社として創建され、昭和14年(1939)年4月1日に招魂社の制度改革により松江護国神社と改称されました。終戦時、一時、島根神社と呼ばれた時もありました。
 明治戊辰戦争から第二次世界大戦までの数々の戦争において、尊い命をささげた出雲、隠岐出身の軍人2万3千柱をお祀りしています。



城山稲荷神社
じょうざんいなりじんじゃ
島根県松江市殿町477
Tel 0852-21-1389


 城山稲荷神社は松平松江藩の初代藩主松平直政が前領地の松本から勧請した神社で、松江藩の守護神とされています。名工・小林如泥作の木狐を神宝としています。小泉八雲は通勤途上に散歩がてら石狐があったこの神社によく立ち寄ったそうです。
 12年に1度開催される城山稲荷神社式年神幸祭(式年祭)の祭事はホーランエンヤ(宝来遠弥)(豊来栄弥)とよばれ、御神体を載せた船団が大橋川から意宇川を通って阿太加夜神社(東出雲町)に渡る渡御祭です。櫂伝馬船での「櫂伝馬踊り」は松江市指定無形民俗文化財に指定されていて、大阪天満宮の天神祭、厳島神社の管弦祭とともに日本三大船神事のひとつとされています。



明々庵
めいめいあん
島根県松江市北堀町278
Tel 0852-21-9863


 明々庵は松平7代藩主だった松平不昧(ふまい)によって安永8年(1779)に建てられた茶室を中心とした古庵です。不昧は家老の有沢弌善(ありさわかずよし)のために殿町にある有沢邸内に建てたのでした。
 明治初期に明々庵は東京の松平伯邸に移されていましたが、昭和年(1928)に松平家から出雲に返され、菅田町の有沢山荘内に戻されました。
 昭和41年(1966)に不昧150年忌を記念して、松江城を望むことができる塩見繩手の北堀町の赤山に移築され現在に至っています。
 茅葺の入母屋造の建物は簡素な美しさがあり、入母屋には不昧直筆の「明々庵」の額が架けられています。百草亭では見事な庭園と茶室を目の前して抹茶をいただけます。
 松平治郷(はるさと)こと不昧は江戸後期の大名茶人で不昧流を起こしました。松江で茶の湯が盛んなのは不昧の影響を大きく受けているからといわれています。



小泉八雲旧居・記念館
こいずみやくもきゅうきょ・きねんかん
島根県松江市北堀町315・322
Tel 0852-23-0714


 小泉八雲が明治24年(1891)5月から熊本に転任する11月までの6か月間住んだ武家屋敷です。明治24年1月に松江の士族小泉湊の娘の小泉セツと結婚したばかりで、ここで新婚生活を送ったのでした。
 この家は松江藩士だった根岸小石の手によって明治元年(1868)に建てられました。息子の干夫がその当時の主で長男磐井は松江中学で八雲に教わっていました。
 磐井はその後、東京帝大でも教わることになりました。大正2年(1914)八雲が愛した旧居の保存の為に松江に帰り、一部改築されていた家を元通りに復元し、記念館設立などにも力を尽くしました。
 その後も根岸家の人々の手によって、八雲が住んでいたままの姿を変えることなく保存され現在に至っています。
小泉八雲記念館
 「耳なし芳一のはなし」「むじな」「ろくろ首」「雪女」など馴染み深い明治の文豪・小泉八雲はラフカディオ・ハーンという名前でした。軍医でイギリス軍少佐だったアイルランド人の父親とギリシャ人名士の娘であった母親との間に嘉永3年(1850)に生まれました。
小泉八雲記念館
 アメリカに渡って新聞記者などをしたのち、日本に来て、英語教師を務めながら、「知られざる日本の面影」「東の国より」などの随筆や文学作品を通じて日本文化の海外への紹介者の役割を果しました。明治29年(1896)日本に帰化し、明治37年(1904)狭心症で亡くなりました。54歳でした。
小泉八雲記念館



田部美術館
たなべびじゅつかん
島根県松江市北堀町310−5
Tel 0852-26-2211


 田部美術館は衆議院議員・島根新聞社社長・島根県知事を務めた田部長右衛門により財団法人として設立されました。入口は武家屋敷特有の「長屋門」になっています。
 山林王といわれた飯石郡吉田村の田部家25代にわたるコレクションの中から,特に茶道関係のもの厳選した美術館です。不昧流を起こした大名茶人の不昧の愛用した「秋埜」の銘のある青井戸茶碗なども所蔵しています。



普門院
ふもんいん
島根県松江市北田町27
Tel 0852-21-1095


 普門院は天台宗延暦寺の末寺で山号は松高山願栄寺、北田川べりにひっそりと建っています。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がお茶の手ほどきを受けたという茶席「観月庵」もあります。
 松江初代藩主の堀尾吉晴が安来の清水寺大宝坊から僧の賢清を招き、松江城鎮護の祈願所として開山したものです。
  賢清は、吉晴が無き太閤秀吉の為に西川津の市成に建てた豊国神社の当職として招いたものですが豊臣家滅亡の後、豊国神社が取り壊されたため、吉晴が賢清の為に普門院を建立したということです。
 普門院の前の小豆磨ぎ橋で謡曲かきつばたを歌うと亡霊が怒って悪さをするという伝説があります。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「神々の国の首都」でも紹介されています。



月照寺
げっしょうじ
島根県松江市外中原町179
Tel 0852-21-6056


 月照寺は松江藩主松平家の菩提寺で、初代直政から九代斉貴までの墓があります。ここには洞雲寺(とううんじ)という禅寺があったそうです。直政は生母の月照院の霊牌安置所として、寛文4年(1664)この寺を再興したのです。
 浄土宗の長誉を開基とし、「蒙光山(むこうさん)月照寺」と改められました。直政は寛文6年(1666)江戸で亡くなりますが、臨終の時に「我百年の後命終わらば此所に墳墓を築き、そこの所をば葬送の地となさん」と遺しました。
 2代藩主松平綱隆は父の遺言を実行し直政の廟所をここに造りました。この際に山号を現在の「歓喜山」と改めました。この直政の立派な御廟は桃山文化の作風が巧みに取り入れてあり、島根県指定文化財です。
 直政の父親は結城秀康です。家康の次男でありながら疎んじられて豊臣秀吉の養子に出されました。秀吉に鶴松が生まれたため、結城家に養子に入りました。関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城藩10万石から越前北庄67万石に大幅加増移封しています。
 慶長19年(1614)、直政は大坂冬の陣に出陣しました。14歳の初陣でした。生母の身分が低いことから部屋住みの身分にあった直政には軍資金がありませんでした。このとき、忠臣の神谷兵庫なる人物が、西本願寺から2千両もの大金を用立てもらったおかげで、出陣できたといわれています。
 冬の陣では豊臣側の名将・真田幸村が守る真田丸を責めました。その見事な戦いぶりに幸村は軍扇を投げて賞賛したそうです。翌年の大坂夏の陣にも出陣し、兄・忠直に従って活躍しました。忠直軍は幸村はじめとする多くの敵の首を獲り、大いなる戦功を挙げたそうです。
 直政は寛永元年(1624)、越前大野5万石に加増移封、寛永10年(1633)信濃松本7万石へ加増移封し、翌年、松本城に月見櫓、辰巳附櫓を建てています。
 寛永15年(1638)ここ出雲松江18万6千石へ加増移封され、初代の松平松江藩主となったのです。
 山門正面にある7代藩主松平治郷こと不昧(ふまい)の廟門は、名工・小林如泥の作で、飾りのブドウの透かし彫りなどが見事です。島根県の有形文化財に指定されています。
 小泉八雲の随筆「知られざる日本の面影」で、6代藩主宗衍(むねのぶ)の廟所にある寿蔵碑の土台となっている大亀が、夜な夜な松江の街を徘徊して人を食べてしまうことを書いています。そこで亡くなった藩主の功績を石碑に彫り込み、その石碑を大亀の背中に背負わせてこの地に封じ込めたのだそうです。
 宗衍は、茶人として有名な松平治郷(不昧)の父親です。生前に碑を建てました。これを寿蔵碑といいます。月照寺の松平家墓所の中に宗衍の墓があり、その墓前碑として建てられています。隠居してからの宗衍は奇行を繰り返したためにそれにまつわる逸話が多いそうです。
 「松江藩主松平家墓所」として国の史跡に指定されています。境内には雷電為衛門の石碑もあります。天明8年(1788)22歳のとき、治郷(不昧)に4人扶持をもって召し抱えられ、寛政6年(1794)不昧が雷電為右衛門の名前を与えています。



由志園
ゆうしえん
島根県松江市八束町波入1260−2
Tel 0852-76-2255


 由志園(ゆうしえん)は牡丹の栽培がさかんな島根県松江市の大根島にある日本庭園です。
 門脇由蔵が観光活性化のため昭和49年(1974)に開園しました。
 昭和50年(1975)子息の門脇栄が父の志を継いで本格的に開園しました。由蔵の由と志を入れて由志園という名にしたそうです。

 約1万坪の本格的な日本庭園で、約3千本の樹木につつまれています。

 大根島は高麗人参の生産地としても有名です。また牡丹の栽培も盛んで、由志園の中の室内庭園「牡丹の館」では満開のボタンを年中見ることができます。

 回遊式日本庭園で枯山水や岩による庭園、池と松と置き石の優雅な空間を堪能できます。



いずもまがたまの里 伝承館
いずもまがたまのさと でんしょうかん
島根県松江市玉湯町湯町1755-1
Tel 0852-62-2288


 出雲は「神々のふるさと」と呼ばれ、神話や古代遺跡が数多く残っています。玉造という名が示すように、古代、勾玉などの玉類の国内有数の生産地でした。
 「古事記」にはスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した後、玉造の勾玉を天照大神に献上し、これが皇位継承のしるしである三種の神器の一つ「八尺瓊の勾玉」となった事が記されています。
 いずもまがたまの里 伝承館では勾玉の歴史や製造法を紹介するミュージアムや熟練の技を間近で見学することができます。



玉作湯神社
たまつくりゆじんじゃ
島根県松江市玉湯町玉造508
Tel 0852-62-0006


 玉作湯神社は、奈良時代の「出雲国風土記」に「玉作湯社」と記され「延喜式神名帳」にも記載されている古社です。
 近世には「湯船大明神」「湯姫大明神」などとも呼ばれましたが、明治になって「玉作湯神社」となりました。
 祭神は玉作部の櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)で、上代、出雲国造(くにのみやつこ)は朝廷に献上用の勾玉をここで作らせたそうです。
 神社境内は、全域が国指定史跡で、花仙山周辺では最古の玉作り遺跡です。古代ここで玉作りが行なわれ、境内には砥石類収蔵庫があり、国の重要文化財を含む勾玉や玉磨砥などが保管されています。



出雲玉作史跡公園
いずもたまつくりしせきこうえん
島根県松江市玉湯町玉造


  出雲玉作史跡公園は玉造温泉街の東の丘陵地にある公園です。かつて玉造部の人々が住み、勾玉などを作ったと思われる玉造遺跡につくられています。
 園内には竪穴式住居や玉作りの工房跡が推定復元されているほか、発掘された実際の工房跡などがあります。

 出雲は「神々のふるさと」と呼ばれ、神話や古代遺跡が数多く残っています。玉造という名が示すように、古代、勾玉などの玉類の国内有数の生産地でした。
 「古事記」にはスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した後、玉造の勾玉を天照大神に献上し、これが皇位継承のしるしである三種の神器の一つ「八尺瓊の勾玉」となった事が記されています。

 遺跡からの出土品は隣接の出雲玉作資料館に収蔵展示されています。



出雲大社
いずもおおやしろ
島根県出雲市大社町杵築東
Tel 0853-53-3100


 出雲大社は、農業の神様を祀る神社でしたが、今では縁結びの神、福の神の神社として広く知られています。
 出雲国の一之宮で旧官幣大社です。祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)です。本殿は国宝に指定されています。日本で最も古い神社建築の形式をもった大社造りで、伊勢神宮の神明造りとともに代表的な神社建築です。
 出雲大社は杵築大社(きづきのおおやしろ)の名で呼ばれていましたが、明治4年(1871)に始まった神社制度により、社格が大社(たいしゃ)となり、社号が出雲大社となりました。
 天上にいた天照大見神(あまてらすおおみかみ)が宮殿を造る条件で、大国主命から葦原中国(あしはらなかつくに)と呼ばれていた今の日本を譲り受け、出雲国多芸志の小浜に天日隅宮(あめのひすみのみや)という巨大な宮殿を造立したことが出雲大社の起こりとされています。
 古事記によると、天照大御神が治める高天原を追放された乱暴な弟の素戔嗚尊(すさのをのみこと)が斐伊川で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治しました。その時、助けた奇稲田姫と結婚し、須我(須賀)に宮殿を構えて産んだのが大国主命です。
 大国主命は御大(みほ)の岬(松江市美保関町)で出会った少名毘古那(すくなびこな)と兄弟となり、二人で協力しながら葦原中国を治めました。その後、少名毘古那は常世(とこよ)の国に去っていきました。
 天上の高天原にいた天照大御神は「葦原中国を統治すべきは、天照大御神の子孫である」と宣言し、高天原の神々を地上に派遣しますがことごとく失敗してしまいました。
 剣と雷の神である「建御雷神(たけみかづちのかみ)」を派遣して、武による威嚇をもって大国主命に「国譲り」を迫ったのです。
 大国主命は息子の事代主命(ことしろぬしのみこと)に相談すると、抵抗せずに、従いましょうと言い、海上に幾重もの青柴垣(あおふしがき)を作り、海中に退去しました。
 もう一人の息子の建御名方(たけみなかた)は、建御雷神に力比べで挑みました。しかし敗れて降伏します。大国主命は帰順するけれど「地中深く根を張り、天まで届く立派な宮殿を造れ」という条件を付け折れたのです。
 現在の出雲大社は、本殿の高さが24mです。中世には今の倍、古代はさらにその倍の96mあったと推測されているそうです。平成12年(2000)に境内から直径1m以上の丸木を3本束ねて一つとした平安時代末の巨大柱が出土し、高層建築物であったことが裏付けられました。
 10月は神無月とよばれます。それは日本中の神様がこの出雲大社に集まっているからです。この地方では神有月(かみありづき)というそうです。



浜田城跡
はまだじょうあと
島根県浜田市殿町123


 浜田城は、元和5年(1619)に5万5千石で入封した古田重治が築きました。徳川頼宣(よりのぶ)の和歌山転封にともなって、伊勢国(三重県)松坂から浜田に国替となったのでした。
 本丸には高さ約14mの三重櫓があったそうです。古田家は藩主が重臣を切り殺すという「古田騒動」のため二代で改易となりました。
 その後、松平周防守家、本多家、再び松平周防守家、松平右近将監家と変遷しました。江戸時代を通して石見地方の政治の拠点でした。
 松平右近将監家の4代目松平武聡(たけあきら)の時の慶応2年(1866)、第二次長州征討に参戦しました。士気盛んな大村益次郎率いる長州軍に敗北しました。
 そして武聡は自らの亀山城に火を放ち、退去したのです。武聡は水戸斉昭の子で慶喜の弟でした。この時、病に臥していたために指揮が執れず、杵築に逃亡し、松江を経て、鳥取に逃げました。浜田藩の飛び地であった鶴田に逃れて鶴田藩主となりました。浜田は長州藩の占領下に置かれることとなったのです。
 現在は城跡は城山公園として整備されています。浜田市勤労青少年ホーム、濱田護國神社などや銅像などがあります。園内には約550本のソメイヨシノが植えられ、市内きっての桜名所にもなっています。
 濱田護國神社は明治維新後の国難に殉じた旧石見国出身の英霊約2万3千柱を祀っています。第二次大戦後は鎮座地名から亀山神社と称していたが、日本の主権回復後に元の濱田護國神社に戻しました。
 木口小平の像画ありました。昭和7年(1932)浜田歩兵第21連隊の営庭に建立され、昭和30年代にこの場所に再建された像です。突撃ラッパを吹いている時に敵弾を受け、それでもラッパを吹き続け絶命しました。その状態にあってもラッパを口から放さなかったという話です。



医光寺
いこうじ
島根県益田市染羽4−29
Tel 0856-22-1668


 医光寺は貞治元年(1363)創建の崇観寺(すうかんじ)が前身です。益田宗兼(ますだむねかね)が建立した塔頭でしたが、本寺の崇観寺が衰廃したため宗兼が医光寺と合併させたのです。
 現在の諸堂宇は、享保14年(1729)の大火後に再建された建物です。竜宮造といわれる総門は益田城の大手門でした。関ケ原の戦い後、ここに移し、承応年間(1652-55)黄檗宗寺院特有の竜宮造に改築したものです。この門は県の文化財に指定されています。
 益田氏最盛期の15代益田兼尭(かねたか)が、大内氏の山口に逗留していた雪舟を、崇観寺へ招聘しました。周防(山口県)の雲谷庵を出た雪舟は崇観寺にとどまり、後第5世住職となったのです。
 本堂の裏には鶴をかたどった池に亀島を浮かべた武家様式庭園があります。須弥山石からは枯滝石組を作っている構図が雪舟の水墨画を思わせます。雪舟が文明年間(1469〜86)に造ったとされています。
 雪舟が崇観寺の住職になっている時、万福寺の庭園も作庭しました。医光寺が力強い武家様式の庭園に対し、万福寺は寺院様式といわれています。両庭とも国の史跡及び名勝に指定されています。  
 雪舟の代表作「花鳥図屏風」はここで描かれたといわれています。また医光寺には雪舟灰塚があります。雪舟を荼毘に付した時の塚だといわれています。



万福寺
まんぷくじ
島根県益田市東町25−33
Tel 0856-22-0302


 清瀧山萬福寺は時宗の益田道場であるお寺です。もとは安福寺という名前のお寺で、石見国中洲浦にあった天台宗の大寺だったそうです。
 正和2年(1313)に遊行した第4代呑海上人が再興して時宗の道場となったそうです。呑海上人は時宗の開祖一遍上人から数えて4代目にあたる上人です。
 応安7年(1374)益田兼見(ますだかねはる)が現在ある本堂などを建築して、萬福寺と改めました。
 益田氏の祖先は右大臣の藤原内麻呂(756−812)といわれ、11代後の大納言の国兼が石見国司のまま残り御神本という姓を名乗りました。
 源平の乱の時、平氏ながら、源氏方として戦い勲功をあげました。これにより石見国内の多くの所領を与えられました。国兼の3代あとの兼高から益田の姓を名乗りました。
 益田兼見は、南北朝動乱の中、益田家の惣領として、北朝側についたり、南朝側についたりと、所領を死守するために各地に転戦して生き残り、益田氏の基盤を作り上げました。自ら剃髪し祥兼と号し、この万福寺で他界しました。その後ここは益田氏の菩提寺となりました。
 万福寺本堂は鎌倉様式の手法を伝える一重寄棟造りで、七間四面、九重造りの単層建築です。国の重要文化財に指定されています。
 益田氏最盛期の15代益田兼尭(かねたか)が、大内氏の山口に逗留していた雪舟を、医光寺へ招聘するなどして益田の地を発展させました。重要文化財の「益田兼尭・水墨画」もこの頃雪舟に書かせたものです。
 雪舟が医光寺(当時は崇観寺でした)の住職になっている時、医光寺の庭園とこの万福寺の庭園も作庭してもらったのです。両庭とも国の史跡及び名勝に指定されています。
 医光寺が力強い武家様式の庭園に対し、万福寺は寺院様式といわれています。須弥山世界を象徴した石庭で、曼茶羅さえ連想されるすばらしい庭園です。



藩校養老館
はんこうようろうかん
島根県鹿足郡津和野町後田ロ66甲
Tel 0856-72-1000


 藩校養老館は石見津和野藩8代藩主亀井矩賢(かめいのりかた)により天明6年(1786)に創設されました。後に津和野藩知事になった11代藩主亀井茲監(かめいこれみ)は人材養成に力を入れ、嘉永2年(1849)ここを拡大充実させました。
 西周、森鴎外、中村吉蔵など全国に名を馳せた重要人物を輩出した藩校でした。現在残っているのは武術教場と書庫で建物自体県指定史跡の文化財です。旧剣道教場は民俗資料館になっています。嘉永6年(1853)の大火焼失後安政2年(1855)に再建され、昭和46年(1971)に修復されています。



大岡家老門・多胡家老門
おおおかかろうもん・たごけろうもん
島根県鹿足郡津和野町後田殿町
Tel 0856-72-0652


 大岡家老門は、かつて津和野藩の家老を務めた大岡家の門です。かつては、津和野町役場でしたが、現在は津和野町役場津和野庁舎になっています。津和野町役場は日原町に移転したためです。



 多胡家老門は県文化財に指定されています。多胡家は、津和野藩の筆頭家老職を藩主亀井家11代にわたり務めました。
表門は、薬医門で養老館と同じく一度は焼失し、その後再建されています。
 構造、意匠とも簡素な造りですが、威厳のある江戸時代中期の武家屋敷門の建築様式を今に伝えています。



津和野町郷土館
つわのちょうきょうどかん
島根県鹿足郡津和野町森村 127
Tel 0856-72-0300


 津和野町郷土館は大正10年(1921)、当時、島根県唯一の郷土歴史博物館として設立されました。津和野の縄文時代から現代までの歴史資料約千点を展示しています。藩校養老館の教科書や武芸書、津和野の生んだ偉人たちに関する資料,藩政資料、乙女峠のキリシタン殉教関係資料など貴重な資料を所蔵しています。
 文久2年(1862)に津田真道、榎本武揚らとともにオランダ留学した西周(にしあまね)がオランダで買い求めたという顕微鏡などもあります。西周は森鴎外と同じ医者の家系で大政奉還前後においては、徳川慶喜の政治顧問をつとめました。



津和野カトリック教会
島根県鹿足郡津和野町後田ロ66−2
Tel 0856-72-0251


 津和野カトリック教会は昭和6年(1931)ドイツ人シェーファによって建てられたゴシック建築の教会です。城下町の古い町並みの中に、西洋建築の建物が違和感なく建っています。隣には乙女峠展示室があります。
 江戸幕府のキリシタン禁制を踏襲した明治政府は、明治元年(1868から翌年にかけて、キリスト教の信仰を公にした長崎浦上村の信徒3千人以上を総流罪とし、金沢、津和野、萩、鹿児島など21カ所に配流しました。
  津和野には、浦上村から153名が連れてこられました。明治6年(1873)まで信徒達は乙女峠(津和野駅西方)の廃寺に収容され、苛酷な拷問などされて改宗を促されたのでした。昭和26年(1951)ドイツ人パウロネ-ベル神父により記念聖堂も建てられました。



太皷谷稲成神社
たいこだにいなりじんじゃ
島根県鹿足郡津和野町後田409
Tel 0856-72-0219


 太皷谷稲成神社は安永2年(1773)に津和野7代目藩主、亀井矩貞(かめいのりさだ)が藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するために京都の伏見稲荷を勧請したものです。
 三本松城(津和野城)の表鬼門にあたる東北端の太皷谷の峰に社を創建しました。以来、歴代の藩主の崇敬が篤く、廃藩後は一般庶民も参拝できるようになり中国地方有数の稲荷神社となりました。
 京都の伏見稲荷や茨城の笠間稲荷、宮城の竹駒神社そして九州佐賀の祐徳稲荷と並び日本五大稲荷に数え上げられています。
 近隣の人々のみならず日本全国の人々から特に商売繁盛、開運厄除の神様として信仰されています。それらの人々が奉納した鳥居がトンネルのように山を上って行き「千本鳥居」として有名になりました。

 祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。豊穣を意味する二人の女神を祭ったものだと思われます。
 稲荷神社は全国で約4万社ありますが 「稲成」と書くのはこの太鼓谷稲成神社だけだそうです。大願成就の祈りが込められているため成の字を充てたようです。
 今の社殿は昭和44年12月に建てられたものです。境内からは 山陰の小京都・津和野の町を一望できます。沢村一樹が浅見光彦を演じた「津和野殺人事件」でもロケに使われたところです。
 大祭は2月は節分祭、初午祭が執り行われます。節分祭の時は石見神楽の鬼が殿内に登場するそうです。春の5月15日は鎮座された日の大祭で五穀豊穣と商売繁盛を 願い多くの参拝者が訪れ、境内に太鼓や笛の音が鳴り響くそうです。秋の大祭は11月15日です。



森鴎外記念館
もりおうがいきねんかん
島根県鹿足郡津和野町町田イ238
Tel 0856-72-3210


 森鴎外記念館は平成7年(1995)4月にオープンしました。津和野町出身の森鴎外の生涯を映像や著書、直筆原稿などを使ってわかりやすく紹介しています。
 夏目漱石とともに、「明治の文豪」と称される森鴎外は文久2年(1862)1月19日に津和野の藩主の御典医の家に生まれました。10才で父に伴われて上京したのでこの場所にいたのは短期間でしたが、死ぬ間際に「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言を残したので愛着があったのでしょう。
 明治14年(1881)東京大学医学部卒業後、軍医の道を進み、明治17年(1884)から21年(1888)までドイツヘ留学し教養と見識を深めました。
 ドイツ留学後発表された「舞姫」や「即興詩人」の翻訳は鴎外の名声を高めました。日清、日露戦争に従軍し、明治40年(1907)軍医総監陸軍省医務局長に就任し、軍医としで最高の地位(中将宮相当)官につきました。
 明治42年(1909)雑誌「スパル」の創刊を契機に再ぴ文作活動に力を入れ、「半日」「ヰタ・セクスアリス」「雁」「青年」等を発表し、小説家として確固たる地位を築きました。
 鴎外には作家と軍医という二つの人生がありました。明治天皇崩御、乃木殉死を契機に歴史小説も手掛け、晩年には史伝文学という新しい分野を開いていきました。大正11年(1922)7月9日、60歳の生涯を終えました。
 国指定史跡に指定されている森鴎外の旧宅が森鴎外記念館の南側に隣接し、鴎外旧宅を展示物の一部として取り込んでいます。



安野光雅美術館
あんのみつまさびじゅつかん
島根県鹿足郡津和野町後田イ60−1
Tel 0856-72-4155


 津和野町出身の安野光雅の美術館です。原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で独創的な作品を生み出しました。
 国際アンデルセン賞を始めとする数々の賞を受賞しています。「ふしぎなえ」「ABCの本」「天動説の絵本」「旅の絵本」「繪本平家物語」などが代表作です。また司馬遼太郎の歴史紀行「街道をゆく」の装画なども手がけました。



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