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鳥取砂丘
とっとりさきゅう
鳥取県鳥取市浜坂


 鳥取砂丘は日本一の大砂丘です。日本海に面し、南北2.4km、東西16km、最大高低差90mに及ぶ広大な海岸砂丘です。
 中国山地から流れ出た千代川が運ぶ砂と日本海の沿岸流が運んだ砂が風と波の力によって集まり、少しずつ、気の遠くなるような時間をかけて堆積してできたのがこの砂丘なのです。
 砂丘に風が吹くと風紋が出現します。砂粒によって砂簾(されん)ができたりして自然がつくりだす芸術作品が出来上がります。
 砂丘の西方には、青い水をたたえた多鯰ケ池(たねがいけ)が見えます。かつては日本海につづいていましたが、砂丘によってせき止められてできたものです。
 鳥取砂丘は山陰海岸国立公園の特別保護地区に指定されています。昭和30年(1955)国の天然記念物に指定され。平成19年(2007)には日本の地質百選に選定されています。
 砂丘近隣に有島武郎、枝野登代秋、高浜虚子、森川暁水、与謝野晶子などの歌碑が点在しています。



鳥取城址(久松公園)
とっとりじょうし(きゅうしょうこうえん)
鳥取県鳥取市東町2
Tel 0857-26-0756


 鳥取城は、市街の北方にそびえる標高263mの久松山(きゅうしょうざん)の山頂を中心とした山城部の山上の丸と、山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸、丸の内などからなる平山城部からなる性格の異なる二種類の遺跡で構成された梯郭式の城郭です。
 天文14年(1545)天神山城を本拠としていた因幡の守護、山名誠通が出城として、久松山に築城したのが鳥取城の始まりです。山名氏は11ヵ国の守護職に任じられた大勢力の名族でしたが、戦国時代末期になると、わずかに因幡、但馬のみになっていました。 
 天正元年(1573)山名豊国が鳥取城を因幡山名氏の本城として整備しました。その後、中国の大勢力にのし上がってきた毛利氏一族の吉川経家の傘下となりました。
 天正4年(1576)足利氏最後の将軍足利義昭が織田信長に追われて毛利氏のもとに落ち延びてきました。信長は羽柴秀吉を総大将に任じて中国攻めを命じました。天正8年(1580)の鳥取城攻めで山名豊国は秀吉の軍門に下りましたが、家臣が豊国を追放し、毛利氏の吉川経家が鳥取城主となりました。 
 天正9年(1581)秀吉は2万の大軍で鳥取城を取り囲み、兵糧攻めにしました。このため鳥取城内では飢餓地獄になり、籠城4ヶ月で吉川経家はついに開城して自刃しました。
 天正10年(1582)浅井氏の旧臣で、秀吉の与力となっていた宮部継潤が但馬豊岡(豊岡市京町)から入封します。慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、西軍についた継潤は改易され、池田長吉が6万石で鳥取城主となりました。
 長吉は城の中心を久松山山麓に移し、4年がかりで城の大改築を行ない、ほぼ現在の形の鳥取城が完成しました。その後、元和3年(1617)姫路から池田光政が32万5千石で鳥取城主となり、城下町の整備を行ないました。
 寛永9年(1632)岡山城主の池田光仲が池田光政と入れ替わって鳥取城主となり、以後光仲系の池田氏12代で明治維新を迎えました。明治12年(1879)鳥取県は島根県に編入されたことで、県庁所在地(松江市)以外に城は必要なしと判断され破却されてしまいました。



仁風閣
じんぷうかく
鳥取県鳥取市東町2ー121
Tel 0857-26-3595


 仁風閣は鳥取城跡だった久松公園の中にあります。当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として扇御殿跡に建てられました。
 鳥取池田家の第14代当主池田仲博侯爵が明治39年(1906)10月起工し、翌年5月に竣工しています。フレンチ・ルネッサンス様式を基調とし、バロック風の軒飾りをもつ白亜の木造擬洋風建築です。
 宮内省匠頭であった 片山東熊(かたやまとうくま)工学博士に設計を依頼し、工部大学校で片山博士の後輩にあたる鳥取市出身の橋本平蔵(はしもとへいぞう)工学士が監督を請け負いました。
 東熊博士は赤坂離宮や京都国立博物館の設計で知られた当代随一の宮廷建築家でした。
 仁風閣は国の重要文化財に指定されています。
 明治40年(1907)実際に皇太子殿下の宿舎として使用されました。この時随行した海軍大将東郷平八郎が 「仁風閣」と命名し、今もその直筆が二階ホールに掲げられています。 



鳥取県立博物館
とっとりけんりつはくぶつかん
鳥取県鳥取市東町2-124
Tel 0857-26-8042


 久松公園の旧内堀の辺りに立つ博物館です。昭和24年(1949)鳥取城跡内の仁風閣内に前身の鳥取県立科学博物館が設立され、昭和47年(1972)鳥取市公設野球場跡地に現在の鳥取県立博物館が竣工されました。鳥取砂丘や浦富海岸に代表される自然、古代から県成立に至るまでの歴史、郷土作家の芸術作品、ナウマンゾウ全身骨格(複製)標本など、鳥取県に関する様々な資料を収蔵し展示しています。



玄忠寺
げんちゅうじ
鳥取県鳥取市新品治町176
Tel 0857-22-5294


 玄忠寺は永正5年(1508)知恩院の末寺として建てられました。当初は鳥取城下の高浜地にありましたが、3度の類焼で矢野地(材木町)、寺西地(西町)、玄忠寺横町(玄好町)に移りました。
 万治3年(1660)の類焼によって、現在地に移りました。現在の本堂は寛政12年(1800)頃に再建されたようです。境内には荒木又右衛門の墓や荒木又右衛門遺品館があります。
 曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つに入る鍵屋の辻の決闘で有名な荒木又右衛門です。
 寛永11年(1634)11月7日、渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟、源太夫の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件です。背景には大名と旗本との対立もありました。
 仇討を果たした二人は寛永15年(1638)鳥取に移封された池田家から厚く迎えられましたが、又右衛門は到着後間もなく死亡し、この玄忠寺に葬られたのです。遺品館には実際に決闘に使われた太刀や鎖かたびら等多数の遺品があります。



景福寺
けいふくじ
鳥取県鳥取市新品治町
Tel 0857-22-2767


 景福寺は應安5年(1372)六瀬の土豪平尾越中守景勝の開基、通幻禅師の開山と伝える曹洞宗のお寺です。
 慶長年間(1596-1615)池田輝政家臣で鳥取藩家老荒尾志摩守隆重が中興しました。池田氏の転封に従って姫路、岡山と移転して、寛永10年(1633)現在地に移りました。
 境内の一角に2つの大きな五輪塔があります。後藤基次(又兵衛)夫妻の墓です。黒田孝高(如水)に仕え、「黒田八虎」の一人に数えられました。その後、孝高死後、当主の長政と対立して出奔します。新たな仕官先の大名家に長政から「奉公構」が出されたため、乞食にまで身を落としたといわれています。
 大坂の陣の際は豊臣秀頼の招聘により入城、真田幸村とともに事実上の総大将格となりました。夏の陣で道明寺にて激戦の末に銃弾を浴びて戦死しました。
 基次の子為勝は母に抱かれて鳥取に落ち延び、成長してから池田光仲に仕えました。そして墓銘を刻んだのでした。
 またこの寺は鳥取藩家老荒尾家の菩提寺であるので荒尾累代の墓があります。



摩尼寺
まにじ
鳥取県鳥取市覚寺624
Tel 0857-26-0756


 喜見山(きけんざん)摩尼寺は山陰地方の古刹で、帝釈天出現霊場です。承和年間(834-847)に慈覚大師が創建したという寺院で、摩尼山中腹に立つ天台宗のお寺です。
 この寺に伝えられている縁起によると、湖山長者の字文長者が、円護寺の大日如来に願をかけ一女を得ました。女の子が8歳の時、突然姿が見えなくなったので探したところ竜女が海の中から空へと舞い上がって帝釈天の姿に変わったというのです。
 帝釈天は元の可愛い娘の姿に戻り、自分の本当の姿は帝釈天であることを告げました。育ててくれたことへの感謝を述べ、自分はこれからあらゆる仏様を守り、その教えを守る人々を救う天上界の神になると話しました。そして娘は再び帝釈天の姿となって、空へと舞い上がりやがて見えなくなったそうです。
 摩尼寺は豊臣秀吉の焼き討ちのため荒廃しました。江戸時代初期に池田光仲、光政によって、鳥取城の鬼門にあたる現在の山裾に再建されました。
 本堂まで303段の石段が大正元年(1912)に敷かれました。急な石段は、途中の仁王門から更に上段へと通じています。両側の繁みには石仏を安置されています。
 山門を入ると正面に千徳殿と呼ばれる本堂があります。千手観音像の他2体を祀っていて因幡第一の特別霊場の風格があります。
 十王堂と三祖堂の前には陸奥守藤原秀衡の病気平癒を祈願したという杉の切株が残っています。秀衡が大病した時、帝釈天があらわれて、「われ因州魔尼寺にあり」と告げられ、使者をこの寺に参らせ祈願したところ、病気全快したそうです。
 山頂の奥の院には、帝釈天が出現したという霊跡など多くの遺跡も点在しています。
 古くから、摩尼山には亡き人の霊魂が集まると信じられてきました。奥の院法界地の地蔵尊には多くの位牌が並び、霊魂を呼び戻したと伝える摩尼山の信仰が脈々と続いています。



樗谿神社
おおちだにじんじゃ
鳥取県鳥取市上町87
Tel 0857-26-2615


 樗谿神社(おうちだにじんじゃ)は慶安3年(1650)鳥取藩初代藩主池田光仲が、曽祖父である徳川家康(東照大権現)を祀るため、日光東照宮から分祀して創建したものです。古くは因幡の東照宮といわれていたそうです。
 光仲はわずか3歳で藩主となりました。慶安元年(1649)に藩主となって初めてお国入りをしました。この際、藩主としての威厳を示すため、鳥取城下への東照宮勧進を幕府に願い出て許可されたのでした。
 江戸時代初期の神社建築としては屈指のもので、石玉垣をめぐらした本殿、平唐門の中門、入母屋造の拝殿、幣殿ともに、国指定重要文化財となっています。本殿桁にある鷹の彫刻は、左甚五郎の作と伝えられています。
 明治7年(1874)樗谿神社に改称され、池田忠継、忠雄、光仲が合祀されました。更に明治11年(1878)最後の藩主の慶徳も合祀されています。東照宮の中では小規模な方ですが、欅を白木のまま化粧材として使用し、桃山風の飾り金具を用いています。簡素ながらも気品に満ちた建物です。
 鳥取県の無形民俗文化財である麒麟獅子舞は、樗谿神社を建立した際に、権現祭の神幸行列で行なわれたのが始まりといわれています。



福田家住宅
ふくだけじゅうたく
鳥取県鳥取市紙子谷
Tel 0857-20-3365


 福田家住宅は江戸時代には庄屋をつとめた旧家で現在も人が住んでいます。建造年代は江戸初期と推定されていて、因幡地方の民家の伝統を伝える農家建築です。
 主屋は西面し、桁行17.8m、梁間9.8mの入母屋造りの茅葺です。後世に改造を受けていますが、主要部分は創建当初のものが比較的よく残っています。
 建築当初は三間取り構造で、土間に沿って建物の奥行いっぱいに広がる大広間を持っていたようです。県下に広く分布した三間取り広間型古民家の典型とされ、国の重要文化財に指定されています。



渡辺美術館
わたなべびじゅつかん
鳥取県鳥取市覚寺堤下1−55−1
Tel 0857-24-1152


 渡辺美術館は鳥取市の渡辺元医師が60年あまりの歳月をかけた国内外のコレクション3万点を収蔵、展示しています。昭和53年(1978)開館しています。甲冑群をはじめ世界的に貴重なもの、大名貴族が最高の贅を尽させたもの、庶民の遊び心や生活のぬくもりが残るものなど幅広いコレクションです。



池田家墓所
いけだけぼしょ
鳥取県鳥取市国府町奥谷宮下


 史跡鳥取藩主池田家墓所は初代光仲(みつなか)から11代慶栄(よしたか)までの鳥取藩主が眠る墓所で、国の史跡に指定されています。現在、合わせて78基の墓碑が立ち並び、周囲には260基をこえる灯籠が家臣等により供えられています。
 玉垣に囲まれた巨大な墓石群が整然と並んでおり、中央に初代光仲の墓所があります。3段に重ねた亀腹台石の上に「亀趺(きふ)」と呼ばれる神獣を象った台石を据え、鳥取市用瀬町から運ばれた石を加工した円頭扁平な墓標が立てられています。
 初代鳥取藩主池田光仲は寛永9年(1632)父・忠雄が死去し、わずか3歳で家督を継ぐこととなりました。幼少のために江戸藩邸に在住し、領国は荒尾氏を筆頭とする家老を中心とした側近に委ねられました。
 光仲が領国に初入国したのは慶安元年(1648)、藩主となって16年を経てからだったそうです。初入国以後は領国経営に力を入れ、慶安元年(1649)幕府に東照宮勧進を出願し、慶安3年(1650)鳥取東照宮(現:樗谿神社)を完成させています。
 承応元年(1652)には藩の実力者で米子城代・筆頭家老の荒尾但馬守成利に責問十余条を突き付けて罷免し、藩主の権力を強化しました。元禄6年(1693)脳卒中のため鳥取城にて死去。享年64歳でした。因幡国法美郡奥谷村に埋葬され、以後ここが鳥取藩主池田家墓所となりました。法号は興禅院殿俊翁義剛大居士。
 2代藩主綱清の墓碑のみ、時の将軍であった徳川綱吉の「生類憐れみの令」に配慮し亀趺がありません。各藩主の墓前には廟門・霊廟・回廊が築かれていたそうですが、明治以降老朽化のため撤去され現在はありません。



因幡万葉歴史館
いなばまんようれきしかん
鳥取県鳥取市国府町町屋726
Tel 0857-26-1780


 因幡万葉歴史館は奈良時代から平安時代に因幡国国府が置かれていた国府町に立地する大伴家持ら万葉集の歌人と、因幡国の歴史民俗文化に関する資料を展示しています。
 大伴家持ホールでは758年に因幡国司として当地に移住し、759年1月に万葉集の最後の歌を詠んだ大伴家持の生涯と芸術を紹介しています。
 また町内に残る古墳や石堂などの古代遺跡を原寸大の模型で再現したり、因幡の歴史や独特の文化を多くの展示品やマルチメディアを駆使して紹介しています。民俗展示室では因幡地方の民俗行事、一本角の「麒麟獅子舞」と「因幡の傘踊り」も紹介しています。



岡益の石堂
おかますのいしどう
鳥取県鳥取市国府町岡益


 岡益の石堂は石堂の森にある壮大な石造建造物です。誰が何のために作ったか分からないところから、謎の石堂と呼ばれています。ギリシャに淵源をもつ六朝文化の影響がみられるそうです。
 石堂の構築は、高さ1mの基壇の上に、厚さ40cmの一枚岩で出来た壁石で側面を囲み、中央に高さ2メートル近い円柱をたて、その上にマス形の石をのせ、さらに塔の笠石等を積み重ねています。



不動院岩屋堂
ふどういんいわやどう
鳥取県八頭郡若桜町


 不動院岩屋堂は吉川の川のほとりにそそり立つ真言宗醍醐派の修験道寺院です。創建は大同元年(806)といわれています。中世以前、本寺である妙高山神光寺は寺領150石を有する大伽藍を誇りましたが、天正年間(1573-1591)秀吉来攻の際に焼失してこの岩屋堂だけが焼け残ったと伝えられています。
 現在の堂は鎌倉時代初期の源頼朝による再建と伝えられましたが、昭和30年(1955)から32年にわたって行われた解体修理で室町時代初期頃の建立と推定されています。昭和29年(1954)に国の重要文化財の指定を受けています。
 高さ約13m、間口約7m、奥行約10mの天然の岩窟に嵌め込まれるようにして造られた寺院建築で、屋根は前面が入母屋造り、背面が切妻造り、床下が舞台造りになっています。



峰寺薬師
みねでらやくし
鳥取県八頭町上峰寺村奥32
Tel 0858-76-0208


 峰寺薬師は奈良の法隆寺、三河の鳳莱薬師寺とともに日本三薬師の1つに数えられています。文久元年(1861)建立の本堂が樹木に囲まれて立っています。
 奈良時代初期、光明天皇の母の県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなのみちよ)の請願で建てられたといわれる古刹です。
 三千代は藤原不比等の後妻となり、藤原光明子後の光明皇后を生みました。以後も後宮に大きな影響力を及ぼし続け、藤原不比等による藤原氏の覇権の確立を助けました。



矢部家住宅
やべけじゅうたく
鳥取県八頭町用呂1278
Tel 0858-84-3178


 矢部家住宅は丹比駅北東の用呂集落にある江戸時代の庄屋屋敷です。茅葺きの大屋根を戴いた入母屋造の母屋は江戸時代初期の建築と推定されます。
 梁行は5間半、桁行は11間と規模が大きく格調高い建物です。
 間取りは当時の上層民家の典型の「広間型5間取」です。座敷にある大きな囲炉裏は江戸期の生活の様子を偲ばせてくれます。
 庭には樹齢およそ270年のヤブツバキがあり、白、赤、桃色の花を咲かせる珍しい「咲分け椿」です。

 鳥取県内では最古の民家です。国の重要文化財に指定されています。



白兎神社
はくとじんじゃ
鳥取県鳥取市白兎603


 白兔神社は白兔海岸を見晴らす丘の上に建っています。創建は明らかではありませんが古事記や日本書紀にも記されていることから相当古い歴史を持っています。
 日本神話に登場する因幡の白兎の白兔神を主祭神としています。豊玉姫命と保食神も合祀しています。かつては兎の宮、大兎大明神、白兔大明神とも呼ばれたそうです。
 古い社殿は戦乱で消失し、鹿野城主だった亀井茲矩により慶長年間に再興されました。その後、寛文9年(1669)と安永2年(1773)に改修され、現在の本殿は明治29年(1896)、拝殿は明治40年(1907)に再建されたものです。
 本殿の土台には28弁の菊の紋章が彫刻された菊座石が使われています。白兔神社の創建に皇室が何らかの関わりがあるのではとみられています。
 因幡の八上姫神に求婚しようとする八十神達のお供をして因幡を訪れた大穴牟遅神(大国主命)が、ワニをだまして皮を剥がれた白兎と出会って助け、喜んだ白兎が八神姫神と大国主神が結ばれると予言した事から、縁結びの神社とも伝えられています。



風の丘資料館
鳥取県東伯郡琴浦町大字別所167−1
Tel 0858-55-7049


 風の丘資料館は鳥取県と韓国との交流の歴史を記念して造られた日韓友好交流公園「風の丘」の中にあります。道の駅「ポート赤碕」に隣接しています。
 文政2年(1819)に韓国を出航した商船が嵐で難破して琴浦町赤碕沖に漂着しました。鳥取藩は船長以下12名を保護して手厚くもてなして長崎まで送り届け、無事本国へ生還させました。
 また昭和38年(1963)釜山港を出航した漁船が故障で赤碕沖に漂着しました。乗組員8人は地元民の介助と募金等の援助により船体の修理を終え無事釜山港に帰還しました。
 これらの経緯等により、鳥取県赤碕町(平成16年(2004)東伯町と赤碕町は合併して琴浦町になりました)と韓国との交流及び情報発信拠点としてこの公園ができたそうです。韓国色豊かな建築物や石塔、石造モニュメントが日本海を見下ろしています。



三徳山三仏寺
みとくさんさんぶつじ
鳥取県東伯郡三朝町三徳1010
Tel 0858-43-2666


 三徳山三仏寺(みとくさんさんぶつじ)は天台宗のお寺です。慶雲3年(706)に役(えん)の行者が白雲に乗って飛来して神窟を開き建物を投げ入れたことが創建と伝えられています。
 寺運が衰えていた三仏寺を、嘉祥2年(849)慈覚大師円仁が再興しました。釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来の三尊像を安置した事から「浄土院美徳山三仏寺」と命名したといわれています。
 三仏寺は古くから山岳信仰に密教を加味した修験道場の中心地でした。末法思想に対する恐怖心から平安貴族から寄進を受けました。源頼朝や足利尊氏などからも帰依を受け、歴代の鳥取藩主からも庇護を受け最盛期には38の堂宇があったそうです。
 崖(がけ)の岩屋に建てられた奥院の投入堂(なげいれどう)は平安時代の建築で、役の行者が法力により、お堂を投げ入れたことから「投入堂」と呼ばれるようになったそうです。
 投入堂は、日本最少の懸造り(かけづくり)で、優美な姿が断崖に浮かんでいます。超一級の建築物で、国宝に指定されています。
 投入堂のほか国の重要文化財に指定されている文殊堂や地蔵堂、納経堂などの堂宇も険しい崖上に建っています。山全体が史跡名勝指定されています。
 登山事務所の前には入山できない旨の張り紙があったので、県道21号線沿いにある投入堂遥拝所から眺めました。



長谷寺
はせでら
鳥取県倉吉市仲ノ町2960
Tel 0858-22-3272


 長谷寺は打吹山の西腹にある天台宗のお寺です。養老5年(721)空鉢仙人(からはちせんにん)と呼ばれた法道(ほうどう)上人を開基として創建されたそうです。
 当初は長谷(ながたに)村(現在の倉吉市長谷)にあり、後に現在地に移されたそうです。その頃は禅宗寺院だったようです。豊臣秀吉の時代に寺領を失い衰退しましたが、米子城主中村一忠によって再興されました。この頃天台宗に転じたようです。
 打吹山の急な斜面に立つ本堂は、地形を利用した懸造り(かけづくり)です。本堂には国の重要文化財に指定されている厨子があります。その中には秘仏の本尊木造十一面観音菩薩坐像が安置されています。
 室町時代から江戸時代に奉納された秀逸な絵馬が多数掛けられていたことから、「絵馬の寺」として広く知られています。毎夜額から抜け出して畑を荒らしたという「白馬之図」の絵馬は特に有名です。



大山寺
だいせんじ
鳥取県西伯郡大山町大山
Tel 0859-52-2158


 大山寺は奈良時代、養老2年(718年)金連上人が寺を建て、地蔵菩薩を祀り、修験の道場として開いたのが始まりといわれています。
 その後平安時代になり高僧慈覚大師が教えを広め、天台宗の一大霊場となったそうです。
 平安時代以降、山岳信仰の仏教化が進むにつれて寺院が増え、最盛期には100を超える寺院と3千人以上の僧兵をかかえ一大勢力になっていました。
 比叡山、吉野山、高野山に劣らないほどの隆盛を極め、西日本に於ける天台宗の一大拠点となっていました。寺の住職である座主は比叡山から派遣され、ここでの任期を務めたことが、高座への入口にもなっていました。
 中世には尼子氏や毛利氏などの戦国武将からも崇敬され、盛んに寄進や造営がなされました。江戸時代に入り、米子城主中村一忠によって寺領の一部が没収された時がありましたが、慶長15年(1610)西楽院の僧正豪円が幕府に働きかけたことにより大山寺領3千石が安堵されました。
 しかし、明治8年(1875)の神仏分離・廃仏毀釈で大山寺の号が廃され、衰退の一途をたどりました。数多くあった寺も現在は4つの参拝堂と10の支院を残すだけになっています。
 明治36年(1903)大山寺の号が復活しました。今ある朱塗りの柱の本堂は、往時の大山三院の一つである中門院の大日堂だったものです。昭和3年(1928)の火災で焼失し、昭和26年(1951)に再建したものです。
 大山寺の本尊を祀っていた本殿は国の重要文化財にも指定されている大神山神社の奥宮になっているのです。



大神山神社奥宮
おおがみやまじんじゃ
鳥取県西伯郡大山町大山


 大神山神社奥宮は大山寺本堂の境内から長い石畳を上ったところにあります。鳥取県米子市尾高には大神山神社の本社があります。
 社殿は文化2年(1805)の建立といわれています。神仏混合時代の神社の特徴である権現造りで、大きさでは日本最大を誇ります。
 本殿・幣殿・拝殿および末社下山神社本殿・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されています。
 もともとは、僧が修行のために大山に登り、その道場として簡単な遥拝所を設けるようになったのが始まりだったそうです。明治の神仏分離令により、大山寺の本尊を祀っていた本殿を大神山神社奥宮に引き渡して分離させられました。
 正面の長廊は両翼が50mもあります。内部の柱などの金色は日本最大級の白壇塗りで、その周りは彫刻や色彩壁画で覆われています。
 大神山(おおかみのたけ)は大山の古くからの呼び名で、大山信仰の中心は大神山神社であったともいわれています。
 大山寺から大神山神社に続く道は自然石を敷きつめた700mもの参道で日本で一番長いということです。



下山神社
しもやまじんじゃ
鳥取県西伯郡大山町大山


 下山神社は、大神山神社に向かっての左手に鎮座しています。社殿は津和野藩主、亀井隠岐守矩貴が文化2年(1805)に再建したものです。大神山神社奥宮末社で本殿・幣殿・拝殿は国の重要文化財の指定を受けています。
 その昔、渡辺源五照政は大智明権現(地蔵菩薩)を崇信し、毎月必ず参詣していました。しかし、参拝した帰路に鈴木某と争って破れ、死んでしまいました。里の人々が憐れみ、大山下山の地に小祠が建てられ、下山善神と呼んだそうです。照政が後に白狐となり、数々の霊験もあり霊を祀ったともいわれています。



大山寺洞明院
だいせんじどうみょういん
鳥取県西伯郡大山町大山69
Tel 0859-52-2038


 洞明院は、西明院谷寺院群に属し、現在は宿坊となっています。大山寺橋を渡って蓮浄院の前を通って夏山登山道をたどるとひっそりと建っています。
 伯耆大山寺縁起によると平安時代、大山寺は南光院、西明院、中門院の3つの院から構成される3院谷と42もの諸院があったそうです。ほかの大寺院と同様に多くの僧兵をかかえ、寺領は3千石で近世期を通じて寺院の財政は豊かだったそうです。
 この当たりは西明院の僧坊のあったところで石垣や石段が往時を偲ばせます。洞明院の入り口の門は江戸初期の作と伝えられ、花や猿の緻密な彫刻がほどこされています。
 洞明院の裏手の長い石段を登りつめたところには、国の重要文化財に指定されている大山寺阿弥陀堂が建てられています。



住雲寺
じゅううんじ
鳥取県西伯郡大山町古御堂513
Tel 0859-54-3327


 仏通山(ぶっつうざん)住雲寺は建武元年(1334)に創建されました。隠岐の島に流された後醍醐天皇を名和長年が船上山に迎え、北条氏の鎌倉幕府と戦って勝利を収めた後醍醐天皇ゆかりのお寺です。
 天明6年(1786)の火事で焼失し、現在の建物は寛政3年(1791)に再建されたそうです。住雲寺は古御堂の鍋倉長者五郎太夫兼光の子の兼定が、父の冥福を願って建てたものだと伝えられています。
 住雲寺は別名「ふじ寺」と呼ばれ、境内には樹齢40数年のふじの大木が4本あります。ここにあるふじは花の房が六尺まで垂れ下がる「六尺フジ」という種類です。昭和36年(1961)埼玉県春日部市にある樹齢千年以上の六尺ふじの樹木から分けてもらった貴重なものだそうです。
 また住雲寺の敷地内で、弥生時代中期の大型建造物跡とみられる柱穴などの遺構が見つかりました。最大で直径1.2mで近くにある国内最大規模の妻木晩田遺跡(弥生時代後期の集落跡)の柱穴よりも大きいそうです。祭殿などの大型施設として使われていた可能性があるそうです。



大山寺阿弥陀堂
だいせんじあみだどう
鳥取県西伯郡大山町大山9


 大山寺阿弥陀堂は慈覚大師の創建と伝えられています。弘安9年(1286)の銘が堂内の仏壇にあるのでその頃の建築とみられています。
 この阿弥陀堂は藤原時代にもっと奥まったところのじょうご谷に常行堂として建立されたそうです。室町後期の洪水で流失、その後、天文21年(1552)に今の場所に古材を使って再建されたものと推測されています。
 5間四方、単層宝形造り、こけら葺きの建物で、正面に1間の向拝を設けています。現存する大山の堂宇で唯一の古建築で国の重要文化財に指定されています。
 堂内に京仏師の良円の作と伝わる阿弥陀三尊像を安置しています。本尊の木造阿弥陀如来は天承元年(1131)造られたといわれ、丈六(2.79m)仏です。両脇の観音と勢至の両菩薩とともに国の重要文化財に指定されています。



門脇家住宅
かどわきけじゅうたく
鳥取県西伯郡大山町所子360
Tel 0859-53-3608


 門脇家住宅は大山口駅の南東1.5kmの所子の集落の中にあります。門脇家は江戸時代には大庄屋を務めていた旧家です。
 母屋は家蔵の「居宅棟上ゲ一式」に明和6年(1769)に建てられたと記してあります。間口11間奥行き7間と広く、太い梁を縦横に高く組みあげている寄棟造りの大型民家です。茅葺の大きな屋根は、門脇家の当時の勢いを物語っているようです。
 母屋は昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定され、平成5年(1993)には2棟の蔵と水車小屋も追加指定されています。
 付設の湯殿、雪隠と、母屋より数十年後に建てられた茶室は客間近くにあり、庭園をめぐる味わいと調和して大庄屋の風格を示しています。
 この門脇家住宅は改造された所が少なく、保存も材質もきわめて良好で、建築史の考証上非常に参考になる建物です。



福市遺跡
ふくいちいせき
鳥取県米子市福市461−20


 福市遺跡は、米子市福市の通称「長者原台地」で発見された弥生時代後期から古墳時代中頃の集落跡です。昭和41年(1966)から2年間の間に住宅団地造成工事発掘調査によって見つかりました。
 東西500m、南北400mの範囲から、竪穴住居跡、土壙墓、古墳、横穴墓などの遺構が200以上発掘されました。ここでは居住域と墓域が分けられていたようです。昭和43年(1968)国の史跡に指定されています。
 福市考古学史料館には、福市遺跡、青木遺跡の出土品を多数展示しています。史跡公園には竪穴式の復元住居も建てられています。



後藤家住宅
鳥取県米子市内町
Tel 0859-23-5437


 後藤家住宅は米子城の外堀であった旧加茂川河口近くの京橋のたもとにあります。江戸時代に海運業を営み、藩の米や鉄の回漕の特権を与えられた回船問屋だったそうです。
 明治初期には北側道路に面した敷地に数多くの蔵や付属建物があったそうですが、現在は母屋と一番蔵、二番蔵、味噌蔵が残されています。これらは国の重要文化財に指定されています。
 「内町(うちまち)後藤」と呼ばれる後藤家は天文年間に石見国浜田(島根県)から移住し、鳥取藩の海運の中心地・米子で造船業と海運業を行う廻船問屋を営みました。川を隔て、約200m先には「灘町後藤」があります。
 明治期には山陰地方初となる鉄道敷設の際、現在地へ米子駅を誘致することに大きく貢献したそうです。その功績により、「後藤駅」などと名前が残されているそうです。



山陰歴史館
さんいんれきしかん
鳥取県米子市中町20
Tel 0859-22-7161


 山陰歴史館は赤レンガ色の外観をもつ米子市旧庁舎です。昭和5年(1930)に造られました。米子市の有形文化財に指定されています。
 米子城の資料や、米子の歴史と人々の暮らしの移り変わりを知ることができます。
 昭和15年(1940)郷土史家足立正氏より多数の考古学、歴史、民俗資料コレクションの寄贈品が収蔵されています。
 常設展示フロアには、米子城の関係資料を展示する「米子城物語」が展示されています。



米子市美術館
よなごびじゅつかん
鳥取県米子市中町12番地
Tel 0859-34-2424


 米子市美術館は、山陰地方初の公立美術館として昭和58年(1983)6月に開設されました。
 淀江町出身の画家、國頭繁次郎(くにとうしげじろう)、境港市出身の写真家植田正治をはじめとした郷土ゆかりの芸術家の作品を中心に収蔵、展示しています。



湊山公園
みなとやまこうえん
鳥取県米子市西町133−1


 湊山公園は明治40年(1907)、当時皇太子であった大正天皇が米子を訪問された記念に作られた公園です。中海のことを「錦海」と呼んでいたことから「錦公園(きんこうえん)」と呼ばれていたそうです。
 かつての海岸の名残である潮止めの松や歴代の米子城主ゆかりの寺清洞寺跡も残されています。春には約450本のソメイヨシノが咲き誇る花見スポットにもなり、市民憩いの場になっています。



旧小原家長屋門
きゅうおはらけながやもん
鳥取県米子市久米町(米子城址内)


 旧小原家長屋門は米子城二の丸跡に建っています。小原家は、鳥取藩の米子城代だった主席家老、荒尾氏の家臣でした。小原家の屋敷は西町にありましたが、長屋門は昭和28年(1953)に米子市に寄贈され、現在の場所に移築保存されました。以後、昭和59年(1984)までの約30年間、米子市立山陰歴史館として利用されていました。米子市の有形文化財に指定されています。



米子城址
よなごじょうし
鳥取県米子市久米町


 米子城は、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱の頃、西軍の山名宗之(やまなむねゆき)が東軍の尼子氏に対抗するために砦を飯山(いいのやま)に築いたのが始まりと伝えられています。
 米子城は、天正年間に毛利元就の子である吉川元春がここを城郭として築きなおしました。天正19年(1591)元春の子である月山富田城主吉川広家は飯山の峰続きの湊山に現在の米子城を築き始めました。完成間近の慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で毛利輝元(毛利元就の孫)が西軍の総大将となったため、参戦しなかったものの減封され、広家は周防岩国に転封されてしまいました。
 代わって駿府城主中村一忠(かずただ)が伯耆一国175000石を領して入城します。一忠はまだ11歳でしたが豊臣秀吉の三中老であった父の中村一氏が東軍に味方した功績を買われたようです。一忠は吉川広家が築いた天守の横に新たに五重の天守を築くなど城の大改築を行ないました。慶長8年(1603)一忠は執政家老の横田村詮を殺害し、村詮の子の主馬ノ助が父の無念を晴らすため、一族と共に居城飯山に立て籠もった「米子城騒動」を起こしています。
 慶長14年(1609)中村一忠は20歳の若さで急逝、嗣子無く中村氏は断絶しました。米子城へは加藤貞泰が6万石で美濃黒野から入封しましたが、元和3年(1617)、大坂の陣の戦功により加増され伊予大洲へ国替えとなりました。
 その後、米子藩は廃藩となり、伯耆・因幡はすべて鳥取藩池田光政の所領となりました。米子城は家老の池田由成が城代となりました。この由成の娘、松樹院は忠臣蔵」で有名な赤穂藩家老の大石(良雄)内蔵助の母になります。
 寛永9年(1632)池田光政が備前岡山城主に転封になり、備前岡山から池田光仲が鳥取城主となりました。米子城は鳥取城の支城として鳥取藩筆頭家老の荒尾成利が城代になりました。以後、荒尾氏11代の居城として明治維新を迎えました。 
 明治5年(1872)米子城は地元士族に無償に近い額で払い下げられ、翌年には城郭のすべては売却、取り壊しになってしまいました。山陰一の名城といわれた米子城は主城の鳥取城よりも大きかったそうです。高さ約20mの4重5階の大天守、高さ約15mの4重櫓の小天守をもう見ることはできません。



石製鴟尾
せきせいしび
鳥取県西伯郡伯耆町大殿


 鴟尾(しび)とは、白鳳時代の寺院建築物の屋根を飾った火災よけ、厄よけに用いる装飾品のことです。天主閣などに取り付けるシャチホコの始祖とも考えられているそうです。
 白鳳時代、日野川流域の大殿地区には大きな寺院があり、ここで発掘された「石製鴟尾(せきせいしび)」は多くの瓦製鴟尾とは異なり全国的にも非常に珍しいもので、国の重要文化財に指定されています。



長楽寺
ちょうらくじ
鳥取県日野町下榎875
Tel 0859-72-0791


 長楽寺は武将、長谷部信連(はせべのぶつら)が再興したと伝えられる曹洞宗のお寺です。
 長谷部信連は平家追討を目指した以仁王(もちひとおう)に仕え、計画が露見し、六波羅で平宗盛に詰問されましたが、屈せず、以仁王の行方を明かしませんでした。平清盛はその忠義を賞して、伯耆国日野郡日野に流したそうです。
 小庵に安置されている本尊薬師如来像、脇侍日光菩薩像、月光菩薩像、毘沙門天像、不動明王像の5体の仏像は、平安時代の作といわれ、国の重要文化財に指定されています。です。
 中でも毘沙門天像は、堂々とした立姿と細部の彫刻技法の精巧さから、平安時代後期の毘沙門天像の傑作とされています。左右には小さい像の十二神将があり当時の仏教文化をしのばせています。



金持神社
かもちじんじゃ
鳥取県日野郡日野町金持
Tel 0859-75-2591


 金持神社は全国で1か所しかない縁起の良い名前の神社です。金運、開運祈願の神社として広く信仰を集めています。
 金持(かもち)とは、古くは、玉鋼の産地で、原料の金(砂鉄のこと)が採取できる谷を多く持っていた事に由来するそうです。
 弘仁元年(810)出雲国妙見宮の神官の二男が、伊勢神宮参拝のため、ここを通りかかったところ、道中安全のために持っていた神前の目付の玉石が急に重くなりました。そして神夢があり、この玉石を里の氏神として造ったそうです。
 後醍醐天皇が隠岐島から脱出された際、天皇に従い船上山へと義兵を挙げた元弘の忠臣・金持景藤が必勝祈願をしたと伝えられています。


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